千九百(和語と普通のうた) 最新の歌論(その四)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
十二月十八日(日)
小生の歌は、短歌、長歌、旋頭歌、仏足石歌に亘るが、これは万葉集の影響だと思ふ。或いは、良寛の影響だらうか。それを調べるために、和歌一から読み直すと、和歌五で、早くも長歌に進出したことが分かった。
その後和歌九で、長歌と反歌の組み合はせだけになる。その後、短歌だけや、反歌の無い長歌が、例外で稀に混ざるものの、例外が多くなるのは和歌(三十七の二)辺りからだ。
それでも、長歌と反歌の組み合はせが多いことには変はりなく、旅行の時に短歌の比率が高くなる傾向があるものの、激減するのは歌(百六十五の二)前後だ。良寛を調べ、漢詩を調べ寒山詩を調べた頃なので、長歌を作る余裕が無くなったのだらう。
これらは完全に忘れてゐた。読み直してよかった。

十二月二十二日(木)
同字進行中の谷川敏朗「良寛全歌集」に「ここまで読んで感じたことは、良寛の歌が芸術ではなく実質の文だ。それでは何が芸術かと云ふと、書と本人の生活だ。もう一つ感じたことは、良寛の歌が調べではなく内容だ。」と書いた。ここで実質の文とは、文自体で美しさを出すのではないことで、良寛の歌が美しいことは「書と本人の生活」で明らかだ。
実質の文でも、歌や詩では心の動きを伴ふ。例へば「日が暮れた」と云っても、寂しさや、今日も無事終はったと安堵する心など心の動きがある。だから歌や詩になる。

十二月二十八日(水)
止観(瞑想、座禅)には、止(心を落ち着かせる)と観(心を活性化させる)があり、(1)止のあと観をするのがよい人と、(2)止のみがよい人、(3)観のみがよい人がゐることを前に指摘した。
歌を詠むことは、止観両方の効果がある。それなら止観(瞑想、座禅)をせず歌を詠んだほうが効率がよいではないか、と云はれさうだが、歌の効果は限定的で、止観(瞑想、座禅)の効果は大きい。
小生は止のみを行ひ、それとは独立した時間に歌を作る。決して歌を作りながら止をしたりはしない。歌を作るときに、一首作るときと、メモ書き歌と称して連続して作る時(過去に五回のみ。一回目二回目三回目四回目五回目)がある。
連続して作るときに、特に止観の効果を感じるが、このことを敷衍して一首のときは一首分の小さな効果があることだらう。
世の為に歌を作れば 静めると働かせるを心へと 二つの動き魂と体を鍛へ健やかにする

(反歌) 邪な気持ちで歌を作るなら心と体邪になる

十二月二十八日(水)その二
かつて文字のない時代は、歌以外は保存できなかった。現代でも、非定型文より定型文がよいと考へると、万葉時代と同じ事情となる。
しかし非定型文を定型文に昇格させても、その定型文が時代に受け入れられないと、保存はされなかった。保存されても後世に「くだらぬ集」と批判されることもあるが、それはまだ先の話である。(終)

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付録十二月二十九日(木)
歌について時代を、(1)文字の無かった万葉時代、(2)文字と漢詩が入った古今時代、(3)西洋文明と西洋詩が入った明治時代以降、に分けることができる。
現代は(3)と考へられてきたが、(4)戦争に負けて西洋かぶれになってしまった時代、が正しい。そのやうな中で(5)地球の癌細胞と化した連中がLGBTなどと騒ぎ出した時代、になった地域も地球上にはある(欧米とその猿真似地域)。
日本は、(5)を防ぐとともに、(4)を抜けて(3)に戻ることが一番良い。また鎖国するのか、と心配する必要はない。鎖国は(1)または(2)だ。
万葉と古今と明治維新以後 歌で時代を三分し だが現代は戦後で四 更に西洋猿真似で五か

(反歌) 戦後とは新仮名遣ひ字余りや字足らず歌が消失時代
(反歌) 西洋が癌化をすると文明と人類そして地球滅亡

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