千八百八十五(うた) 万葉集講座(有精堂出版、昭和48)第一巻、第二巻を読んで
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
十一月二十六日(土)
万葉集講座(有精堂出版、昭和四十八年)は六巻からなる。本日は第一巻を読んだ。第一章「万葉集の本質」は高木市之助さんの執筆で、まづ
本質とは、(中略)時間に規制されるばかりか、環境という名の空間に支配されてやまぬ何ものかである。

として人麻呂が
ささの葉はみ山もさやに乱れどもわれは妹思ふわかれ来ぬれば (巻二、一三二)
と詠んだ場合この相聞歌の本質は荒々しい石見国の自然に滲透され(以下略)

これは慧眼だと読んだときは思ったが、当たり前の話で歌を鑑賞するとき周囲環境を思ひ浮かべる。
次に久米常民さんの説を引用し
万葉集の誦詠歌が
(1)文字の使用が考えられなくて、全く伝承(以下略)
(2)文字の使用は始まったが、その使用能力のない人々によって愛誦された地方的な民謡歌
(3)文字の使用能力はあるが、その歌が公表され発表された時、肉声が用いられ(以下略)

そして
文字使用能力者であった万葉時代の貴族や官人たちが万葉集に遺した多数の歌が(1)・(2)と同じように、肉声で誦詠されることを第一義として創作され鑑賞され(以下略)

その一方で
旅人・憶良・赤人の諸作品乃至一般贈答歌における間接伝達の方法を推測(以下略)

高木さんは、類句類想のある歌は民謡的な集団的つながりがあるとする。
「万葉集の成立」の賞では後藤利雄さんが
巻二十の(中略)最後の六十首(四四五七-四五一六)を(中略)補遺・拾遺の部分とする。

次に万葉集を読むときに、注意したい。
「万葉集編纂の動機と目的」古屋彰さんでは
「旧本」に存在したことになり、それに対する疑問を後の整理者が左注として書き記したものと思われる。

ここで注目するのは、左注が後の世で追記されたことだ。ここで追ひ浮かべるのは、古今以降の詞書は、万葉の物語と異なり、歌の鑑賞についての注文だ。左注は良くて詞書が悪い理由は、詞書が読む前に注文を付けるからだと、小生は考へたが、詠み人が付けたのか後世の人が付けたのかが違った。
「万葉集の編者」伊丹末雄さんは、仲麻呂、諸兄の対立と、家持が双方に接近し
三月には、三十歳であったらしい家持が内舎人から宮内少輔となり、すぐまた六月、いきなり上国たる越中の国守に任ぜられたのであった。

ところが元正上皇が重病になった。
巻一から十四までと十六がほぼ完成しており、巻十五は急遽まとめられて異色の一巻となり、巻十七巻頭の三八九〇から三九二一までの部分は、(中略)とにかく一巻の分量に達せしめなければならなかった家持が、にわかに補ったのに違いない。

その後、上皇は亡くなり、諸兄も亡くなる。
原万葉集は未整理のままとなり、保護者を失った家持は、仲麻呂に嫌われて不遇の生活に入る。
家持に日が当たるのは、(中略)平城天皇の宝亀時代、それも清麻呂が右大臣となった三年以降のことであった。清麻呂に勧められて原万葉集を整理し、二十巻とするに足りない三巻を、(中略)老家持には、もはや昔日の気力も体力もなく(中略)大伴家に蓄積されていた歌メモを整理し、巻十八以降の三巻をほぼ成したのであったらしい。

家持が八月二十八日に亡くなり
九月、罪を着るや、佐保大伴家の家財と共に(中略)巻十八以降の三巻もまた官没され(中略)巻十八の巻頭(中略)が汚損または破損した。

---------------------- ここから(歴史の流れの復活を、その四百三十八) -------------------
伊丹さんは、新潟県上越市立小学校の教諭で、大学教授、講師、助手などと並び一章を担当されたのは素晴らしい。
万葉の編者派閥の争ひに小学校の教師が語る

昭和四十年代と異なり、近年は教授の肩書で見当はずれのことを云ふ怪しげな連中、それも専門外のことを単に主張する人(一番記憶にあるのは上野千鶴子か)が現れた。肩書とは無関係に、皆で正しい主張をしようではないか。と同時に、なぜ上野千鶴子みたいなのが教授になったのかも、検証する必要がある。
大学の教授の名にて専門の外を述べても間違ひだらけ
大学の教授の名にて個人的主張をするは公私混同


(歴史の流れの復活を、その四百三十七)へ (歴史の流れの復活を、その四百三十九)へ
---------------------- ここまで(歴史の流れの復活を、その四百三十八) -------------------

十一月二十七日(日)
第一巻の続きで「万葉集の編纂年代」奈良橋善司さんでは、
歌は、元来(中略1)芸能を構成する一要素にすぎなかった。それが(中略2)自立的に扱われるようになるためには、まずその歌にまつわる古風な生活感、換言すれば、歌の発生的扮装を払い落す機会を持たねばならなかった(以下略)

(中略1)には「歴史や」が入り、(中略2)には「歌自身の意味で」が入る。奈良橋さんが執筆したのは三十五歳。国学院大学大学院博士課程を修了し明治大学経営学部専任講師になったかなる前か。この後、助教授、教授へとなるが、その前の若い時代だからこれらの語を入れて判りにくくなるのも仕方がない。
真に万葉の時代としてふさわしい内容を備えている時代といえば、(中略)ほぼ奈良遷都以後(中略)の三十数年、巻十七以下四巻を加算しても、せいぜい奈良朝前期五十年ほどの間となり、(中略)巻五・六・八・十といったところ(以下略)

そのため
額田王や人麻呂、黒人などは、いわば万葉の前史とも記紀歌謡の終焉ともいうべきものになる(以下略)

「近代における万葉集 --アララギ派の万葉論から万葉学へ--」山根巴さんでは
正岡子規における発言の内容と見識とは、究極のところ、啓蒙として位置づけるのが適切であろう。
これを万葉論に展開したのは伊藤左千夫であった。左千夫を通じて、さらに島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明らにひきつがれて、それは万葉学となった。まづ左千夫は
万葉集は(中略)之を二大別して、主張子即ち形式派之を人麿派と云ふべく、主意味即ち写実派之を憶良赤人派と云ふべく、・・・・若し夫れ製作の価値より之を視る、憶良赤人の歌は到底人麿に比すべくもあらず。

ところが
「吾が同志の研究進路」としたのは、「比較的劣れりとなし未だしとなす所の憶良赤人の精神を継いで、より進歩的写実趣味の成功を遂げ(以下略)

人麻呂は
単純にして変化に乏しく、到底時代思想に適応せざる(以下略)

藤森朋夫さんを引用し
左千夫が万葉に発見したものは、歌のもつ生き生きしさであった

具体的には
感情の多寡さであり、素材の観取の広さであり、しかも使用される言葉の豊かさと、自由さとである。韻律文芸としての純粋性、作者感情の声調上にもたらす表現の特殊性、それらについては特に強度の探求を加えたごとくである。一見単調にうけとれるものが、実は包蔵するものが大きく、(以下略)

左千夫の休止の後に、中心となったのは赤彦だった。前期、中期、後期に分け、前期は 多く喜怒哀楽といふ如き(中略)その感情が純粋一途に集中してゐる(以下略)
赤彦の選歌は東歌が半分を占める。中期では
人麻呂・赤人に対しては、それこそ力の入れようが違っている。(中略)左千夫とはまた別の熱っぽさで、崇拝の極にあるものとして(以下略)

山根さんは、赤人を中期に入れたことを
憶良を後期に入れて説いていることとともに、問題と言わねばなるまい。

ここに山根さんの限界がある。「問題」と言ったからには、その根拠を云ふべきだ。或いは、赤彦がかういふ分け方をした根拠のどこが間違ひだと思ふのかを云ふべきだ。
末期では
形を整ふるに急であると、生き〱(二文字繰り返し記号)した心が薄くなる。(中略)概念や観念の上によい心持になつて遊ぶやうになる。(中略)形に現れて遊戯の文学になる。(中略)その代表は大伴家持である。・・・・第二の代表は山上憶良である。

そのやうななかで
茅上娘子の作を、「万葉集全巻を通じての逸品であり(以下略)

防人歌について
歌柄は寧ろ前期に属する(以下略)

とした。
次に茂吉は昭和九年に
「私は伊藤左千夫に師事し、作歌を稽古してより既に三十年である。その間常に人麿のことが私の心中を去来しつつあつた。

子規は
歌として万葉を研究せんとする人は、作者の側に立つて熟考するの必要あり。・・・・今の万葉を学ぶ者万葉を丸呑にせず万葉歌人工夫の跡を嚙み砕きて味はば、明治の事物も亦容易に消化するを得んか。

「万葉集の研究史」平野仁啓さんは
契沖の人間理解には、仏教が大きな契機となっている。

それに対し
賀茂真淵の万葉研究は(中略)古代精神への復帰を目的としているのであった。

そして
「古代の政治体制のなかに適合することこそ、真淵にとって人間のもっとも理想的な存在形式」となるとき、(中略)古学は国学へと転換するのである。

近代に入り、子規は
他集が毫も作者の感情を現し得ざるに反し、万葉の歌は善く之を現したるに在り。

更に
歌として万葉を研究せんとする人は、作者の側に立つて熟考するの必要あり。

子規は橘曙覧について
歌想は万葉より進みたる処あり、曙覧の歌調は万葉に及ばざる処あり

と述べ、平野さんは具体的に
万葉の歌が主として主観的歌想を述べたとして、客観的歌想を歌った曙覧に進歩を認めるが、曙覧の歌調を分析して、第二句重く第四句軽く結句は力が弱いという頭重脚軽の傾向を見出し、万葉の歌調に及ばないことを証明するのである。

小生も以前、曙覧を取り上げたことがあった。再度読み返すと、曙覧は歌ではなく川柳の短歌版、狂歌の一種だ。小生と曙覧は対極にあって、子規はその中間なのだらう。因みに歌は一首一首が異なるものだ。小生の歌にも、曙覧みたいなものはある。それは状況に応じて、或いは散文に応じて詠んだものだ。

十一月二十八日(月)
万葉集講座の第二巻に入り「万葉時代の貴族と庶民」は田名綱宏さんだ。庶民が税はともかく使役で生活が大変な一方、貴族は一位だ、二位だ、正三位だ、従三位だと、特権階級だった。「万葉時代の暦と時制」は橋本万平さんだ。これも興味深く読んだ「万葉集と風土」は森脇一夫さんだ。万葉作品の地域分布は川口常孝さんの調査を引用し
大和一四一八
近畿(大和を除く)六〇八
東海東国三六八
北陸三四八
中国七八
四国
九州三〇一
北陸が多いのは大伴家持、九州は旅人、憶良など大宰府歌壇、東海東国は東歌や防人歌が多くを占めるからだと云ふ。そして
大和や畿内の気候は温和で(中略)巻八や巻十に見える四季に分類された作品群は、おおむね大和屋畿内(中略)巻十一や巻十二の作者不明の作品群も同様である。

「万葉人の衣食住」は樋口清之さんで
原始末期から、古代初期にわたる、いわゆる万葉時代は、(中略)身辺生活(衣食住等)の上にも(中略)同様の時期だった。

具体的には
食料や衣料などは、種類や様式に前代的なものとの間に大きい変動はなかったが、(中略)税制や消費様式は大きく変わり、極端な奢侈余剰の生活を許される階層と、貧窮で生存可能の最低限さえ危ぶまれる階層に分れた。

「万葉集と中国思想」は白川静さんで
律令制は、中国の国家理念をいわば体系化したものである。(中略)百余年にすぎない万葉の世界は、(中略)激動の中に展開した。

具体的には
都城と伽藍とが、この時期の政治と文化のありかたを象徴する。(中略)貴族たちはその推進者であり享受者であったが、人民はその負担に苦しんだ。(中略)かつての氏族社会における人びとの信頼関係は失われた。(中略)『万葉集』はその中から生まれてくるのである。

万葉集の内容を見ると
万葉の後期には、旅人や憶良など、生活と思想とを文学的表現の場とする作者もあらわれ、また末期には家持のように、その風雅を抒情の世界にまで高めた歌人も出てくる。

これらを
それ自身一の様式として、この集の全体を貫いているという理解のしかたが、一般に行われ(中略)アララギ派の解釈がその立場に立つものであった。(中略)それはわずか百余年の間に成就され、多様に変化し、そして滅んだ。

さて
『万葉集』におけるそのような展開は、『詩経』の詩篇(中略)の展開と、本質的には何ら異なるところのないものである。

従って
『万葉集』を渾然たる一の様式的世界としてとらえようとする考え方には、なお少なからぬ問題があるようである。

白川さんの意見に大賛成。尤も小生は、万葉でも古今でも新古今でも、佳作は佳作、駄目な歌は駄目な歌、と単純に考へただけで、白川さんみたいに深い理論があってのことではなかった。
万葉にはすぐれた叙景歌とされるものがある。自然のいぶきの深さを感じさせるものが多い。ただその深さは、霊的な自然観がなお背後にあって(中略)アララギ派の鑑賞者が讃嘆してやまなかったものは、多くはその重畳する意識の世界の深さにあった。

アララギ派の万葉讃嘆には、賛成できない部分もあるが、なるほどと思った。
万葉の歌の中で、比較的に新しい部類のものとされる詠物や寄物陳思にも、ものに寄せて祝頌する古代の呪的な伝統が流れている。

云はれてみれば、思ひ当たる歌は多い。
叙景や詠物にみられる古代的な性格は、万葉の中で変質し、やがて風雅の歌となる。(中略)律令的な都城の文化の成立、(中略)外来的なものが、ようやく生活化されてきたのである。

なるほど、と感心するばかりだ。
万葉は古代歌謡の世界から出発した。古代歌謡は、(中略)人をも含めて相互に霊的な交渉が可能であるとする(以下略)

人間は絶対ではない。限られた存在と知る時、現代人も霊的世界へ帰ることができる。
赤人の自然諷詠とされるものに「春の野に菫採みにと(以下略)」(中略)当時の草摘みは魂振りの意味をもつ行為であった。

現代人が万葉を読むときの心得がここにある。
旅人が赴任した大宰府は、大陸との接触の第一線であり(中略)しかしその地の現実は(中略)律令制下の矛盾、逃亡と貧苦を露呈する状態にあった。その中で旅人と憶良は、唐風の文化に陶酔しながら、それぞれ異なった志向をみせている。

家持が少納言となった翌年、諸兄が没した。大伴一族の
古麻呂・池主・兄人は殺され、古慈悲も土佐に流された。

家持は万葉により幸せとのちに思ふも当時は苦難
(終)

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