二千五百四十五(うた)中村元監修「原典で読む原始仏教の世界」
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十一月十一日(月)
中村元監修「原典で読む原始仏教の世界」は、各章ごとに著者が異なる。前にも読んだ記憶がある。第七章阿部慈園「原始仏教の倫理思想」には頭陀行で、達磨大師や良寛和尚の戒律軽視を解決できることを「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十八)で取り上げた。
阿部慈園「まえがき 原始仏教とは何か?」は、まづ
「仏教」という用語は西洋思想が導入される以前のわが国では一般に用いられなかった、明治期以前、仏教は「仏道」あるいは「ほとけのおしえ」と呼ばれていた。
これは貴重な情報である。
東南アジアや中国・日本などの仏教と異なってインドの仏教は、宗教の三つの共通要素である(一)教義、(二)教団、(三)儀礼のうちの第三の儀礼の要素を回避し、バラモン僧に死者儀礼などをまかせてきたことである。バラモン教、それを引き継ぐヒンドゥー教と、仏教が、インドにあってうまく住み分けたとみることも可能であろう。
釈尊の葬儀は、在家が行ひ、遺骨の分配はバラモン僧の提案に従った。釈尊在世当時の話かと思って来たが、ヒンドゥー教になってからも同じだった。或いはこれが、仏法がインドから消滅した原因ではないだらうか。一般には、仏法が密教化したことでヒンドゥー教と差が無くなり吸収されたと云はれるが。
一方で時代が下ると、根本説一切有部が無常経と云ふお経を作り、葬儀で唱へた記録がある。
次の話題で
アショーカ王以降の仏教は部派仏教と呼ばれ、それは紀元前後ころに生じた大乗仏教とともに十三世紀初頭までのインド仏教史をほぼ二分した。
次に、中村元さんは
(一)『スッタニパータ』や『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部経典)「サガータヴァッカ」は、アショーカ王以前のものである。
(二)中でも「スッタニパータ」中の「アッタカ編」と「パーラーヤナ編」とは、釈尊に近い時代の思想を伝えている。
(三)原始仏教聖典のうちの大部分の詩句は、アショーカ王以前のものであるらしい。
(四)現存パーリ語聖典たる「五ニカーヤ」、あるいは漢訳「四阿含」の原本などは、その中にきわめて古い資料を伝えているにもかかわらず、その散文の部分は、だいたいにおいてアショーカ王以後に作製編纂せられたのである。
次にブッダの生涯に入る。後半の
ブッダは大悟ののちサールナートで五人の青年僧を教化(初転法輪)したのち、ベナレスで長者の子ヤサと友人五十四人を出家させた。ここに六十一名からなる仏教教団ができた。
ここまで大躍進である。
ブッダとその一行は、ベナレスからマガダへ向かった。首都の王舎城は(中略)新興の商業都市であり、バラモン教的伝統の束縛の弱いところであった(以下略)
ガヤーに近いウルヴェーラーで、カッサパ姓のバラモン三兄弟とその弟子千人を仏教に帰依させた。ついで、王舎城にて自由思想家の一人サンジャヤの弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガッラーナ(目連)および彼らの徒衆二百五十人を仏教に集団改宗させた。
(中略)仏典の冒頭に「仏は千二百五十人ともなりき」という文言がよくあらわれる(以下略)
ダンマパダの因縁物語に、比丘の質が低下したことが伺へるが、このときの急膨張が原因であらう。
マガダの国王は城の東方にある霊鷲山に住したブッダを訪い、(中略)岩山の洞穴などに住むブッダや弟子たちの不便さを案じて、王舎城北門の外に竹林精舎を建立し、これを教団に寄進した。この精舎は仏教教団最初の僧院ともなった。
コーサラ国も(中略)経済的に繁栄していた。(中略)ブッダはこの舎衛城でも多くの信徒を獲得している。第一に挙げられるべきは、祇園精舎を建立し寄進した富豪スダッタ(須達)長者である。(中略)アナータピンディカ(括弧内略)長者とも呼ばれていた。
今まで山で修行をした人たちは、精舎内で生活は変はらなかったであらう。しかし精舎が出来てから出家した人たちは異なる。戒律と頭陀の分離はこのときか。精舎が出来ても、山で修業する人はゐたことであらう。とは云へ、釈尊在世の時代だから分裂ではない。
根本分裂ののち、アショーカ王時代の第三結集を経て
十八部とも二十部ともいわれる部派仏教時代を迎える。(中略)そのうち有力な二派が、説一切有部と南方上座部とである。前者は大乗仏教とともにイスラームの侵入による教団の滅亡(十三世紀初頭)まで存続した。
多くの書籍が、有力なのは説一切有部とするが、これは中国に伝はった北方の情報であらう。2000年に発行されたこの書籍では、南方の上座部も取り上げた。
急膨張その後二つの精舎得て 仏陀滅後に戒律と頭陀に分かれて分裂か 上座大衆分かれる前に
反歌
後までもデーヴァダッタの教団は存在のためことさら悪く
後の世までもデーヴァダッタの教団が存続したため、ことさら悪く云ふのであらう。インターネットで検索すると
7世紀にインドを訪れた玄奘三蔵の『大唐西域記・巻十』には、(中略)ベンガル地方では後期まで提婆達多派の教団が存在しており、三伽藍を要して乳酪を口にせず提婆達多の遺訓を遵奉し、過去七仏の中でも釈迦仏を除いた賢劫の三仏を信奉していた事などが記されている。また法顕三蔵も5世紀にネパール国境近くで提婆達多派の教団に遭遇したと報告している。
後の世にデーヴァダッタの教団は スリランカ及びもろこしに行かぬが為にインドで消える
反歌
上座部と大衆部との違ひよりデーヴァダッタの違ひ大きし
「まえがき」の次は、丸井浩「第十章 原始仏教とウパニシャッド思想」へ飛ぶ。中村元さんの
無我説の元来の趣旨は、執着の排除であり、(中略)無我説(我がない)というよりもむしろ非我(我でない)説とよぶべきものである(以下略)
この説は前に紹介したことがあると、調べて見ると阿部慈園編「原典で読む原始仏教の世界」を読んでに、「まえがき」で紹介した内容があった。入力が二重の手間になった。そして第十章は無い。
非我で当ホームページを検索すると
沼津高専野沢正信さんのページ
宮元啓一さんの著書(2.「仏教誕生」)
宮元啓一さんの著書(3.「わかる仏教史」)
3.中村元選集第13巻「原始仏教の思想」
4.奈良康明「原始仏典の世界」
片山一良「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む」続編
魚川裕司「仏教思想のゼロポイント」批判
が見つかった。
無我説は瞑想法の一つにて 貪瞋痴なる障害を無我にてすべて飛び越えて行く
反歌
阿羅漢になれば六道輪廻せずこの状態もまた無我と呼ぶ(終)
「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十八)
「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百二十)
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