千二百九十七 上座に関係する書籍を読む(4.奈良康明「原始仏典の世界」)
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月一日(水)無我と非我
奈良康明さんの「原始仏典の世界」は、NHK「こころの時代」で二十一年前に放送された内容を書籍にしたものだ。一読して、内容の優れたことに驚いた。奈良さんはこのとき駒沢大学学長。大乗系の学長とは云へ公平で、仏法中興の祖中村さんの後継者と云ってもよい。
仏典のことばは、たとえ一般的な書き方がされていても、主語を「人々は」から「私は」と一人称に代えて受けとめてみる。(中略)十人の人がいたら、十の釈尊の教えの現代化があるといっていいものでしょう。
(17)
これは貴重な教訓だ。
生老病死は(中略)「四苦」の内容ですが、このうち「生」というのは後からつけ加えられたものです。
(21)
これは貴重な情報だ。
「無我」には(中略)二つの意味がある(以下略)。普通には(中略)人間存在の本質をなす永遠不変の実体(霊魂などはその一例です)(中略)がないことである(以下略)。
(33)
もう一つは
釈尊の無我は「我がない」というよりは、どんなものも「我(としてとらえられるもの)ではない」と言った方がわかりいい。「我がない」ではなく、「我ではない」です。ですから、「無我」のかわりに「非我」ということばをあてる学者の方もいるくらいなのです。
(35)
ここは中村さんの第13巻に詳しい。奈良さんの発言について一つ気になることがある。当時のインドは我があるかどうかで論争があった。仏教はそれらとは無関係だったが、無我を説いたため
哲学的な論争に参加して、「我」はないと説いたのだ、というように理解されてきました。事実、
後代になると、仏教の無我論は実体的な我、アートマン、の存在を否定するものだと説かれましたし、それは仏教の基本として正しい考え方です。
赤い部分は変だ。最初は説かれず、しかし誤解され、後代になってから説かれたものは正しくはない。それを奈良さんは正しいとする。ここは理解できない。せっかくこの書籍を一読して、奈良さんは中村さんを継ぐ者として仏法中興となると、一瞬期待したのに。

五月一日(水)その二無常
(爪の上の)これだけの「もの」(色)であれ、(中略)永久に存在し、変化しないものがあるなら、(中略)苦を滅し尽くすことはできない。
これだけの「もの」でも、(中略)永久に存在し、変化しないものではないからこそ、(中略)苦を滅し尽くすことができるのである。
「もの」に関して厭い離れるがよい。厭い離れれば貪りを離れる。貪りを離れれば解脱する。
(・・・受・・・想・・・行・・・識・・・)
(38)
これは相応部経典だが、奈良さんは次のやうに解釈する。
受想行識は人間の心のはたらきを分析したもので、最初の色(肉体ないし物質)とあわせて五蘊といいます。人間を構成する五つの構成要素というほどの意味です。
(40)
私は今まで奈良さんと同じ考へだったが、お経と解説を読んで別のことを考へ始めた。色を爪の上の物質だと考へると、受想行識も物質を人間がどう認識するかを示したのではないか。つまり五蘊はアートマンを細分したものではない。アートマンを細分した一つ一つが無常だと感じとるとすることは、世間で流布した意味での無我と同じになる。それなら無常と無我は同じ意味になってしまふ。このお経を読む限り、五蘊は物質への感覚を細分化したものではないか。

五月二日(木)悪魔
釈尊が自我・欲望を克服したことは疑いありません。(中略)「欲望を滅した」という言い方は、誤解を招きやすい言い方です。(中略)欲望には悪い煩悩と同時に善いことをしようという欲望もあります。(63)
ここは重要だ。上座の修行者を、困ってゐる人がゐても冷めた目で見る人とする書籍を読んだことがある。よい欲望も滅したらさうなるが、善い欲望は滅しないから冷淡になることはない。
仏典には悪魔がしばしば出てきます。(中略)悪魔は煩悩を代表するものです。ですから、悪魔が出てくるというのは煩悩が出てくることですが、(中略)出方が「原始仏典」と「大乗仏典」ではかなり違います。
(66)
これは正しい。悪魔は我々の煩悩だ。
後代の「大乗仏典」になりますと、悪魔は悟りをひらいた後の釈尊には出てこないのが普通です。(中略)釈尊は「降魔」、つまり悪魔を制圧してから成道したとされています。
(76)
これは大乗では釈尊を神格化したからで、奈良さんもそのやうに解説されてゐる。
「六年苦行」ということばがありますが、実はこの成句はインドの仏典には出てきません。漢訳仏典になって初めて「六年苦行」と出てくるものです。インドの、特に原始仏典では、六年の「困難な時」とか「難行」という記述が多く使われます。
(81)
この意味することは
苦行というのは、たとえば断食とか、呼吸の制御とかのように、明らかに一つの「行法」です。(中略)釈尊の沙門としての「難行」の生活とは区別して考えた方がよいものです。
苦行を六年間も、朝から晩まで続けられるわけはないのです。やはり釈尊は沙門としての難行の生活を行いながら、その間に行法としての苦行を行なってこられたと見る方が正しいと思います。
(84)
難行と苦行についてインドと漢訳の違ひが判らないから、何とも云へない。それより苦行ではなく、難行に苦行の入ったものだったとして、違ひがあるだらうか。仏典の解釈に役立つだらうか。

五月二日(木)その二生きとし生けるもの、無明、悪を為すな
今回は第四章から第六章までをまとめた。まづ
今日、環境保全や動物たちの生態系保護などが問題となっています。(中略)インドの人間と動物との関係はユニークなものです。(中略)人間は死ぬと(中略)動物として生まれ変わることもありえます。
(102)
そしてインドでは
総人口の半分近くは肉を食べないのではないでしょうか。
(102)
その理由は、自分の先祖が動物に生まれ変はったかも知れないと考へる人もゐるが
もっと普通なのは、なにも生き物を殺してまで食べなくてもいいではないか、という考え方です。生き物に対する憐みの情ですが、釈尊は特にこれを強調してゐます。
(102)
上座の国に行くと、大きな寺院の周りで魚や鳥を売ってゐる。それを解き放して功徳を積むのだが、これは解放した動物を業者が再び捕まへて売るから、本当は何の役にも立たない。それでも釈尊の時代の精神を今に受け継ぐので、それに参加する人たちに好意を持っても悪意を持つことはない。日本でも吾妻鏡を読むと、鶴岡八幡宮で放生会を行った記事が載る。次の章に入り
心が静まり、身が調えられ、正しく生活し、・・・・・人生の道理を正しく知っている人に怒りはない。
(119)
ここが大乗の弱いところだ。正しい仏道を行なへば原始仏道の戒は不要だ。伝教はさう考へた。しかし比叡山は僧兵による怒りの山と化してしまった。お経は続き
怒らないことによって、怒りに勝て。善いことによって悪いことに勝て。(中略)真実によって虚言に勝て。

ここで大切なことは勝たなくてはいけない。と言って勝つことを目的にしてはいけない。怒らないことや善いことを目的にし、結果として勝つことが重要だ。
無知が単に知識の欠如だなどというだけのものではないことが、明らかになってきます。

(前略)真実を思索することによってとらわれない平静な心と念いを清める。これが無明を打破して証智により解脱を得ることである。(『スッタニパータ』以下略)

ここにいう「真実」とは、たとえば無常とか無我、縁起などという言葉で示される宇宙の大きな真実、はたらき、のことです。(中略)逆に言えば、無明に目がくらまされているからこそ、欲望を振り回して、真実を見ることが出来ないのだ、ということでしょう。(129)
これは同感だ。次の章に入り、ダンマパダの七仏通誡偈について
「自らその心を浄めよ」というのが大きな眼目です。
(145)
ここも同感だ。

五月三日(金)古城への道
私は人気のない林をさまよっていて、ふと古い道を発見しました。昔の人が歩いていた道に違いありません。その道をたどっていくと、昔の人が住んでいた古い城がありました。(以下略)
比丘たちよ、私も同じように過去の仏たちがたどった古道、古径を発見したのだ。比丘たちよ、過去の仏たちのたどった古道、古径とは何であろうか。それはかの八正道である。(中略)この道を歩んでいきながら、私もまた老死を知り、老死の生じる原因を知り、老死の滅を知り、老死の滅に至る道を知ったのである。
(160)
このお経で注目すべきは「苦」ではなく「老死」だ。老死は苦とは異なり消滅させることはできない。奈良さんは苦として話を進めるが、それでよいのかどうか。
奈良さんは八聖道の正思、正語、正業を身口意にまとめて当てはめる。これは卓見だ。私は、一つ一つ順番に因果関係を見るから、複雑になる。奈良さんのやり方だとその次の正命、正しい生活にそのまま繋がる。
いつも正しく生きようとする意欲を心にもち続けなければなりません。それを「正念」といいます。/正念は仏教の実践ではきわめて大切な項目です。(中略)正念の念とは元来、記憶する、思いだすという意味のことばですが(中略)正見に随順した生活を送るための意欲と注意力を常に行きわたらせていることです。
(167)
ここから先は、奈良さんの曹洞宗の立場が強くなるので渇愛したい。なぜ奈良さんを中興の祖としての中村さんの後継者と感じたかを述べると、中村さんは育った年代から小乗仏教の語を用ゐることはあるものの、パーリ語の経典に敬意を持ってゐた。それに比べて中村さんより後の人たちは、小乗仏教の語だけ真似したり、パーリ語経典の悪口さへ云ふ人が現れた。それに比べて奈良さんにはさういふところがない。今後若い人たちはこの姿勢を見習ってほしい。(終)

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