千三百八十三 片山一良「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む」続編
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十月二十六日(土)
前回、片山一良「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む」を書いたときに、もう一回読んで次はどれだけ異なるか試してみたいものだと思った。前回は読むのが精一杯だったからだ。
本経は、その止観の「観」を主に説き(以下略)(16)
これは同感だが、パオ瞑想では呼吸の観察を「止」とする。その一方で呼吸する自己が苦、無常、無我だと思へば「観」にもなる。「止観」は状況によって「止」にも「観」にも「止兼観」にもなるやうに思ふ。
七仏通解偈について天台大師は
それ泥洹(涅槃)の真法は、入るにすなわち多途あれども、その急要を論ずれば止観の二法を出でず(33)
これはいい内容だ。
智慧なき者に禅はない 禅なき者に智慧はない
禅と智慧があるならば かれはすでに涅槃に近い(64)
禅と智慧が同時なことに賛成。
「止の眼」により自己が名色のままに存在することを、「観の眼」により名色が生滅することを、そして「道の眼」によりそれが不生不滅であることを知る者と言えましょう。(73)
「道の眼」の根拠が判らないが、片山さんの発言なので間違ってはゐないと信じたい。不生不滅なんてよい言葉だ。
「厭逆思惟」の実践では、たとえ三蔵に通じた者であっても、最初に「語」(声)により読誦を行なわなければならないとされます。(中略)たとえば、昔、(中略)マハーデーヴァ長老は、二人の長老に業処を乞われ、「四ヵ月間、この読誦のみを行ないなさい」と三十二様相の聖典のみを与え(中略)預流者になったと伝えられます。(79)
読経の前身として注目できる。
本経は、三十二身分を「厭逆」により、「止」の業処を説いたもので(中略)四禅を得ることができます。しかしまた、「観」に転じて(中略)四諦の智慧も得ることもできるものであります。(82)
「止」と「観」の共存例だ。
色は、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』と(中略)慧によってみられるべきです(89)
このあと受想行識のすべてについて無我であるとするが、所有でも実体でもないと云ふことであって、実体の有無は言ってゐないと思ふ。実体の有無は無常で消滅するのだから。瞑想の手段としてアッタン(アートマン)が無いとするのは構はない。
クッラ長老の話で
仏はかれが墓地へ行くと、今死んだばかりの女性を想像して見せられた。(105)
修行者は戒を守ることが一番重要で、それにより神通力を得る。だから明治維新後に妻帯するやうになった日本の僧に、経典を習ったり坐禅を習ふのは構はないが、廻向を含む神通力を期待してはならず、それは僧から習った在家が八戒を保ち読経することで、役割分担ができる。
十月二十七日(日)
楽の受を感受すれば<私は楽の受を感受する>と知ります。
の経文について註釈は
受のみが感受する。(中略)<私は感受する>という慣用句のみが生じる(112)
初期の非我から、時代が経つと我が無いに転じたとする中村さんの説は、経文と註釈の変化から読み取れる。しかし註釈を長く用ゐてきたのだから、伝統に従ふべきで、非我の意味に戻すことは原理主義になる。一方で西洋文明の異常流入による意識の変化があるから、ここは非我がよいのか、と云ふ気もする。
一方で仏道を習ふ人にとっては在家でも「私は楽の受を感受する」と云へば、受が受けたと判る。ごく当然のことだと云ふ気もする。
喜、憂、平静(捨)について
神々の主よ、また私は(中略)従うべきものととても、従うべきでないものとしても説きます。(114)
修行者になぜ世間的な喜、憂、平静があるのか今まで疑問だったが、なるほどと納得した。
十一月一日(金)
心の随観は読んでみると、私にも合ふかと云ふ気がしてきた。そのやうに見ると受の随観も合ふかも知れない。今まで心の随観に興味が無かった理由は、八十九心や五十二心所と定義が先に入ったためだった。心の随観を始めたあとでこれらを学習すれば、参考になると喜んで読んだかも知れない。
十一月二日(土)
「五蘊」が(中略)「過去・現在・未来のもの、(中略)遠くのもの、近くのもの(145)
五蘊はそのときの状態を表す。このことからも、我を五蘊に分解できるから無我と云ふ説明が正しくないことが判る。我がないことは無常で説明すべきだ。
環境をよく知り、人間のあり方をよく知れば、どのようなことがあろうとも、すべてはそのとおりのものであることが分かり、心はかならず明るくなると言えましょう。(中略)この道を中道と言います。(226)
今まで中道は苦行と楽行の中間だとする解釈が多かった。どうもしっくりこなかったが、今回の解釈で納得できた。同じことは
仏の道は、八正道という一つの道、中道であり、ここに智慧と慈悲のすべてが現れます。(236)
これも納得できた。法の随観の最後に四聖諦があり
四聖諦が仏教のもっとも大事な心理であり、(中略)ただし、この四聖諦も最勝義からはただ一種と見られるものです。『清浄道論』(第十六章)はこれについてつぎのように語っております。
「苦のみあり、いかなる苦者もなく 所作のみ知られ、作者はなし
滅はあり、滅する人はなく 道はあり、行く者は知られず」
と。最勝義からは、一切の諦は、苦の受者、作者、滅者、行者が知られないものであり、空性である、ということです。これがここで求められる観と言えます。(257)
私自身は、この主張に賛成ではない部分もあるのだが、片山さんの著書に敬意を表して、何も論評しない。特集を前に組んだのに、再度特集を組んだことで、私のこの書籍への敬意としたい。(終)
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