千三百九十三 魚川裕司「仏教思想のゼロポイント」批判
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十二月六日(金)
魚川裕司「仏教思想のゼロポイント」は、ひどい駄本だ。およそ仏道を信じる人が書いたとは思へない。その理由をこれから明らかにしたい。
『スッタニパータ』に(中略)ゴータマ・ブッダの「この糞尿に満ちた(女が)何だというのだ。(以下略)」という過激な言葉を含む偈で始まる。(中略)註釈によれば、これはマーガンディアというバラモンが美人の娘を連れてゴータマ・ブッダに婿になってくれるよう頼んだ際に(以下略)
27
これはバラモンが美人の娘を連れてゴータマ・ブッダを婿にしようとした特殊なときの偈であって、世間一般の話ではない。魚川さんはこのあと性行為だけではなく、異性と冗談を言ったり、見つめ合ったり、壁の向かうの女性の声に耳を傾けるなど増支部経典の七つの「淫欲の繁縛」を解説するが、さういふ話ではない。あくまで特殊な状況の話だ。
市井や農村のお寺に参拝してゐれば、こんな間違ひは絶対にしない。比丘たちは普段から、女性たち(手伝ふ男性も)の調理したものを食し、男性や女性に説法し相談に乗るからだ。
そもそも「糞尿に満ちた」は女性だけではなく男性も同じだ。魚川さんは、突拍子もないことを羅列すればよいと思ってゐる節がある。
ゴータマ・ブッダの仏教の目標は修行者を解脱・涅槃に至らせることであり(中略)ゴータマ・ブッダの在家者に対する教えというのは、(中略)善行を積んで来世でよりよい生を得ることを説くものだから(中略)ゴータマ・ブッダの証得した法をそのまま説く教えとは、基本的に性質の異なるものである。
33
誰でも現世でも来世でも幸せでありたい。一方で人生に幸せがあったとしても、いづれ苦が来る。だから永遠に苦のない涅槃を目指す。性質が異なるものではなく、理解度が異なるだけだ。
涅槃を目指す場合でも、因果の法は適用される。魚川さんはここを間違へたから
ゴータマ・ブッダの仏教を理解することによって、私はその価値を、貶めようとしているわけではない。むしろ話は全く逆で、彼の仏教を「人間として正しく生きる道」といった理解に回収してしまうことをやめた時に、はじめてその本当の価値は私たちに知られることになる(以下略)
37
ページが少し戻るが、この本を勧められない理由に、ブッダの弟のナンダや子のラーフラまで出家したことに、父王が
(前略)どうか尊者よ、父母の許しのない子を出家させないでください。
これにはさすがのゴータマ・ブッダも参ったようで、以後はスッドーダナの願いを聞き入れて、父母の許しのない子は出家させないことにしたということである。
35
問題点を赤色にした。参ったとするのは魚川さんの推測だ。それなら根拠を示すべきだ。
現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して「異性とは目も合わせないニートになれ」と求めているわけで(以下略)
35
これなんかは、先ほど述べたやうに、市井や農村のお寺に参拝してゐれば、絶対に間違へない。
「無我(anattan)」論は仏説の基本だが、預流の段階に達した人は、そのことがはっきりとわかるというわけだ。(中略)阿羅漢位に至ってはじめて断じられる決のなかに、慢(ma-na)という煩悩があるのだが、これは他人と自分を比較して、優れているとか劣っているとか考えることである。だが、右に見たとおり、「自分」があるという見解は、預流の段階で断じられているはずである。
43
無我を知っても、五蘊を纏めるものが(これは無常だが)残るではないか。魚川さんは学僧に質問し、まだ漏が残ると回答を得た。ここまでは問題ない。それなのに
「わかっちゃいるけどやめられない」のだというわけである。
44
これはひどい文章だ。植木等が歌の中で云ふから聴く人を楽しませる。文章にすると読む人を不快にさせる。しかも判ってゐるけどやめられないのではない。漏が残るから自然に出てくる。

十二月七日(土)
ミャンマーにたくさんある瞑想センターで
七年以上も滞在している、古株の日本人僧侶がいるというので挨拶に行ったところ、彼が私に対して開口一番に、「ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ」と言ったのである。
64
この日本人僧侶は、この瞑想僧院の比丘と比べと特異なのか、外国人比丘と比べてどうなのか、日本人比丘の間ではどの立ち位置なのか。まづそれらを明らかにし、次にこの日本人僧侶の七年間の経年変化、出家した動機。これらを調べないと、単に突飛な事実を書いただけで終ってしまふ。
解脱・涅槃を得るための瞑想法(中略)は、それを修することの直接的な結果として、世俗的な意味で役に立ったり、人格がよくなったりすることはないし(以下略)
65
太線の部分は、原文では「`」がふってある。人格がよくなることは涅槃ではないが、涅槃するためには必要だ。
「善悪」の基準も、条件が変わればコロコロと代わっていく。(中略)平時に一人を殺せば重罪人だが、戦時に百人殺せば英雄になると、よく言われるようなものである。
66
平時でも、銃を乱射する犯人を殺せば英雄だし、戦時に戦争犯罪で百人殺せば重罪人だ。ブッダの時代から今に至るまで変はらない善悪の基準がある。仏道もそれを前提とする。
佐々木閑は、律とは「無産者(僧侶)の集団が、社会の人たちから『この人にならお布施してもよい』と敬意を受けつつ活動を続けるために必要な、『僧侶としての格好良さ』を維持するための行動マニュアルである」という趣旨のことを述べているが、この定義は、律というものの性質を、非常によく表現したものだ。
74
私は、信徒が功徳を積む機会を増やすための慈悲とみた。修行者に食事などをお布施する習慣は、ブッダの時代にあった。だからお布施を受けるためのマニュアルは必要ない。
解脱・涅槃の境地というのは、世俗的な意味での善や悪はともに捨て去ったところにある(以下略)
76
悪を捨て去るのは当然だが、善はより進めて超えたところにある。

十二月八日(日)
絶対不変の魂が無いのは当然で、無我はさう云ふ意味だ。魚川さんは「常一主宰」とわざわざ変な用語を用ゐるが、仏道の用語か、判りやすい用語のどちらかにすべきだ。「常一主宰」は
常住であり、単一であり、主としてコントロールする権能を有する(主宰する)もの、ということである。
81
コントロールを除いて、魂と変はらない。魂にはすべてをコントロールする機能はない。それは中村元さんの非我説の一部で、非我説と無常を合はせれば、非我の意味ではない無我にもなるから魚川さんの
私自身は、この「非我説」を支持しない。
84
は変だ。
現代日本には、「私は悟りました」とか「解脱しました」とか宣言する人は、僧俗を問わずあまりいない。
131
魚川さんはこれまで、上座の理解者を装ってきた(実際はこれまで指摘したやうに反仏道に近い)。ところがこの一文で、上座とは無縁だと分ってしまふ。
日本では「悟り」と言えば円満な人格完成者としてのイメージが強いから(以下略)
132
魚川さんと私は意見が正反対だ。人格完成は悟りに必要ないのが魚川さん、人格完成は必要だがそれだけで阿羅漢に達するのではないとするのが私の主張だ。
解脱に至った者には、必ず「解脱した」との智が生ずる
132
解脱した者には「解脱した」との智が生ずるが、解脱してゐない者が間違って「解脱した」と感じてしまふこともある。だから上座では、他人に云はないのが慣習だ。
最後に涅槃についてもう一つだけ言っておくと、(中略)日本を含めた世界各地に存在する瞑想センターに参じれば、誰でも「経験」を試みることのできるものである。
160
三宝への帰依が必要だし、誰でもではない。とんでもない慢心だ。
「捨」の態度が(中略)あらゆる分別の相が滅尽している以上、それは仁愛もなければ人情もない
166
「捨」とは他人への差別や利己心を捨てた平静さだ。だからブッダゴーサは清浄道論で、無関心を「無智捨」と呼び、捨無量心とは似て非なるものとした。
覚者・解脱者たちにとっては、悟後の「行為」はその全てが純粋な「遊び」である。そして「遊び」である以上、その仕方は「自由」だから(以下略)
182
そして大乗が現れたとするのだらう。ひどい駄本だ。(終)

前、固定思想(二百三十一の二)へ 次、固定思想(二百三十一の四)へ

メニューへ戻る 前へ 次へ