二千二百八十五(うた)飯田利行「大愚良寛の風光」(その二、漢詩編)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
三月三十一日(日)
良寛が各宗派を批判的に述べた詩がある。漢文を省略し、書き下し文は
  〇賛浄土真宗骸骨
浄土宗の骸骨、
其の色みな瑠璃。
もし横超を以って住(とど)まらば、
信心 乱れて糸のごとし。

最初の二行は簡単なので、三行目から解説は
もし他力を誓願とすることのみに執われると、その信心も乱れて糸のごとく、収拾がつかなくなる。

次に
  〇賛天台宗骸骨
天台宗の骸骨、
古今より仮空を軽んず。
中道 なお是ならず、
不視すれば 智者の風あり。

二行目からは
今も昔も、因縁によって生ずる諸法は、仮りのものであり、また畢竟は空である、という説き方を軽視する傾きがある。
この宗教的基盤を重視しないと、中道実相の教えも妥当性を欠くきらいが生じる。第三者として、この宗旨を下瞰してみようならば、天台大師が法華経を解釈するに当たっての四種の釈風が、そうさせているような気がする。

真言宗は、分派したことを批判するものの「阿字 遠からず聞こゆ」の解説が判らないので省略し、法華宗は、法華経を品定めして四品だ八品だと分派したことを批判し、これは簡単過ぎるので省略した。
  〇賛華厳宗骸骨
華厳宗の骸骨、
法海に華蔵を開く。
帝網の孔に出入し、
雪上 大いに霜を加う。

三行目からの解説は
帝網無礙説の網の目に、時々帝網法界の教えを出入させるようなもので、いささかくどい。つまり(中略)理論をいかに重ねても駄目である。


次の章へ行き『題九相図』について、良寛作、良寛の道友有願和尚作と、二説ある。飯田さんは
『題九相図』の訳注に(中略)有願作を前提としてで(中略)江戸期における曹洞宗侶一般の学識教養と境地、つまり行解が、ずばぬけて高い水準を示していた証左になるものと、感にたえなかった。
が、訳注の仕事が進むにつれて、詩の内容、表現様式上よりみて、有願作の仮説が次々に打ちくだかれる結果となった。

上記の各宗の骸骨は、『題九相図』についての章より一つ前なので、良寛作と有願作の二説に含まれるのか不明だ。おそらく含まれると思ふ。あやふやなのは、飯田さんの『良寛髑髏詩集譯』は、図書館に無くまだ見たことがない。
とは云へ、良寛さんか、その道友有願は、このやうな高度な書籍を著した。そのことだけでも、良寛さんの学識の高さが分かる。
この章の最後に
良寛の詩は、虚と実、美と醜、煩悩と菩提、といった一切の対立を許さない。だが、対立を絶した世界を踏まえ、虚を、醜を、煩悩を凝視してあくことを知らない。
この凝視してやまない主人公を、仮りに髑髏といい、骸骨と称している。

他宗批判作は有願か良寛か 二人の交流長くして どちらの作も良寛の思想を含む貴重な史料

反歌  専門家譯を書くうち良寛の作と信じる根拠続出

四月一日(月)
次の章では、吉本隆明の著書を批判する。
良寛さんは、円通寺を辞してからは、道元の思想から逸脱し、道元が排した荘子の思想に入り、しかも道元が禁じた詩人として後半生を送った、と述べているが、良寛さんは、その荘子などは、批判すれば(看荘子図賛骸骨)とて賛えてはいなかった。

同感。詩人については、良寛が漢詩を書いたのは自分の思想をまとめる為であり、教導の為だった。詩人として収入を得る為ではなかった。
良寛さんは、荘子、列子をはじめ寒山子などの知識人で実践のともなわない人物に対しては好感をもっていなかった。

小生は、寒山が天台山国清寺の僧で、豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身とする伝承もあり、良寛さんの生き方や詩には寒山の影響があることから、寒山は荘子や列子とは同列にはできないと考へる。漢詩専門家の飯田さんが云はれることなので、更に調べてみたい。寒山はこれまで八回特集を組んだ(12345678)。
円通寺から帰って五合庵に入ったころに、真木山に住んでいた原田鵲斎が、たびたび五合庵を訪れるが、いつも坐禅をしていなさる(中略)と『鵲斎遺稿集』に記している。

混同の、一日中ぼんやりして机の上に荘子が置いてあったとする記憶を信じるか、鵲斎遺稿集を信じるか。だいたい一日中ぼんやりして狂人みたいだったら、机の上に荘子を置く意味が無いではないか。それを一日中見てゐたと云ふ真偽混同男は、一日中何をやってゐたか。
無能の生涯作す所なく、国上山巓に此身を託す
他日交情如(も)し問わば、山田の僧都是同参

吉本は結句を
”ある日友人や知人がなにかをたずねたら、あいつは山田の僧都の仲間じゃないかと答えてくれたらいいと思う"と訳しているが、"答えてくれたらいいと思う"ではなく、「私は山田の僧都(二文字で、かかし)といっしょに暮しているよ」つまり坐禅三昧の明け暮れです、という意。「僧都」とは、「坐禅」のこと。そしてこの山田の僧都とは、道元禅師の「坐禅」と題した歌「守るとも思はずながら小山田のいたづらならぬ僧都なりけり」に依ったもの。

山田の案山子みたいに役立たない、と訳す人もゐるので注意が必要だ。
案山子には稲作守る役がある坐禅も同じ三大修行


四月二日(火)
道元は亡くなる直前に、永平寺から京都の覚念宅へ移った。離山の時に
十年飯を喫す 永平寺、
十箇月来 病床に臥す。
薬を人間(じんかん)に討(たず)ねて暫らく崎を出づ、
如来 手を授(たす)けて医王に見(まみ)えしむ。
出家主義をかたくなまでに固執していたかに見えていた禅師が、在家人の檀越波多野公を如来と目し、京の町医者を医王とみる。すでに禅師には、出家在家のはからい差別はなく、ただ在るものといえば、道に則った生き方をしているか否かが問われていたにすぎない。

前に道元の著作で、在家を軽んじる(出家者を重んじることの裏返しではあるが)ものを目にしたので、ぜひさうあってほしい。ここで
人間は、在所とか広くは娑婆のこと。

今回は「良寛と道元」の段落だが、或る著名人が、良寛は円通寺を出てから
道元の宗旨に背を向けて荘子の思想に傾倒し、ついで詩人になり下がったと強調している。(中略)「法華讃」百二篇、「九相図」三百二篇中、いずれの一篇なりとも熟読すれば、良寛の面目のなんたるかに重いあたるであろう。特に「法華讃」のごときは、永平『正法眼蔵』を注釈書としなければ、真意をうかがい知ることができない。

次の話題に入り、漱石は「坊ちゃん」「吾輩は猫である」が有名になり過ぎたが、本来は漢詩志望で
「良寛上人の詩はまことに高きものにて古来の詩人中其匹(たぐひ)少きものと被存候」

と手紙に書いた。
中国では、明治、大正、昭和を通じて日本に三人の漢詩人がいる。それは漱石と鴎外と君山(元京都大学教授(以下略))であると。

そして
漱石の詩は、文語による模範的な定型詩であり、良寛の詩は、文語に口語を交えた自由詩。

飯田さんが、良寛渡航説に賛成なのは、ここに理由があるのだらう。因みに小生が渡航説に賛成なのは、良寛行方不明時期を良寛が触れない理由を、解決できるからだ。また、渡航説に反対する人たちの反論が拙劣なためだ(旅券と旅費はどうしたか、密航が見つかったら海に放り込まれる。最近は飯田さんを無視して、混同を持ち上げると云ふ、更に低級になった)。
さて、自由詩と云っても、最近の日本詩とは異なる。萩原朔太郎は
最近の日本詩壇における詩の如く、殆ど全く音律美がなく、朗吟にさえ堪えないようなものは、決して「自由詩」という名称に値しない。(中略)要するに今日の所謂自由詩は、真に詩とは言わるべきものでなくして、没音律の散文が行別けの外観でごまかしてるところの、一のニセモノの文学であり、(以下略)
(終)

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