千六百ニ十二(歌) 再度、寒山詩を読む
辛丑(2021)
十月六日(水)
寒山詩を読み、まづ現れた疑問は
一九〇 (前略)禅林の古塔虹蜺に入る
宋の時代に、国清寺は禅宗に取り込まれ、元の時代に天台宗に復帰した。寒山の時代は唐なので、禅林は変だ。宋の時代に作られたものか。
寒山詩 真偽不明が 混在し 仏道自然 詠ふ詩は ほぼ真作と 信じるも 禅林の語は 後世の作
(反歌)
唐の末 天台宗は 一時衰退 宋の世に 天台宗は 再興された 国清寺 元(げん)の時代に 天台復帰
初の試みで、片歌を三つ合はせた旋頭歌を作った。
十月七日(木)
寒山詩の作者は、(1)すべて寒山(及び豊干、拾得)が作った、(2)他の人の作品も少しは混ざる、と二つの考へがある。
しかし私は、(3)寒山(及び豊干、拾得)の作ったものはごく一部で、それ以外は多数の人たちではないか、と考へる。
観光地に俳句帳があるとしよう。俳句帳を置いた人がすべてを作ったとは、誰も考へない。最初の幾つかは俳句帳を設置した人が作っても、それ以外は不特定多数の作品だ。同じやうに寒山詩の多くは、後世に訪れた人たちが書いたのではないか。寒山の住んだ場所は、国清寺の裏の近くだらう。寒山詩に
一六 人寒山の道を問ふ 寒山へ路は通じず 夏天に氷は未だ釈(と)けず(以下略)
これは場所を言ったのではなく三聖の一人寒山の心中を詠ったものだ。寒山の直作かも知れないし、後世に寒山を擬して誰かが作ったのかも知れない。決して山奥ではない。
国清寺の近くなら、誰でも行ける。壁などに詩を書く人は後世多かったことだらう。
寒山詩 読めば意外と 落胆や 期待外れも 含まれる わけは多数の 人による 自信の作を 投稿箱に
十月八日(金)
二六 粤に寒山に居してより 曾つて幾萬歳を経たる(以下略)
(1)幾萬歳を幾万年とすると、人間の一生を越える。(2)幾万日だと計算が合ふ。或は、(3)千歳一遇の千歳が長い年月の意味なので、幾萬は長いと云ふ意味か。(4)寒山より後世の人の作なので幾万年なのか。
最初は(2)だったが、(4)かも知れないと思へてきた。
四四 幽隠の処に慣居し 乍ち向ふ国清の中 時に豊干老を訪ね 仍ほ来り拾公を看る(以下略)
寒山がどう云ふ人かを最も的確に示す詩である。寒山は変人ではない。豊干は老師、拾得も国清寺の若い僧である。
五三 一向寒山に坐し 淹留は三十年 昨来親友を訪ると 太半は横泉に入る(以下略)
仏道とは逆方向の詩だが、良寛にも同種の詩があり、良寛はこれを寒山作と考へた。尤も良寛の時代に、寒山詩に寒山以外の作があるとは知られてゐなかった。
七〇 山客は心が悄悄 常に歳序の遷るを嗟(なげ)く (中略)詎(あに)仙と成らんや(以下略)
山に隠れ住む人は憂ひ、歳月の過ぎるのを憂へる (中略)どうして仙人になれるか(なれない)、と云ふ意味だ。天台山は国清寺が近いが、仏道とは無縁の人も隠れ住んだ。さう云ふ人の作品であらう。
一二二 (前略)小室に閑かに居し(以下略)
小室山は達摩が修行した山で少林寺がある。国清寺が禅宗に取り込まれた時代の作だ。
一四九 (前略)孝経末期の章(以下略)
仏道のお経ではなく孝経に言及するところを見ると、寒山の作ではない。
十月九日(土)
後半は、寒山作と思はれる作品が多くなる。とは云へ
一七二 吁嗟貧にして(以下略)
から
一七四 志を(以下略)
までは寒山作ではないだらう。
一七九 多少の天台人 寒山子を識らず(以下略)
も違ふだらう。自分で寒山子と呼ぶはずがない。寒山作は
一九六 身有る(以下略)
一九七 昨河辺の樹を(以下略)
一九九 憐れの底は衆生の病(以下略)
二〇〇 書を読むは(以下略)
二〇一 我れ人を瞞す漢を見る(以下略)
幾つか分類したが、私の傾向を示すことが目的で、私の考へを押し付けてはいけない。だからこのくらいで終了させたい。
十月十日(日)
豊干詩は二つで
一 余天台に来て自り 凡そ幾萬迴を経る 一身雲水の(以下略)
雲水は禅宗の呼び方だから、後世の作だらう。
二 本来無一物(以下略)
「本来無一物」は禅宗の表現だから、これも後世の作だらう。
その逆に、拾得詩はほとんどが本物だ。私が寒山詩を真作と後世作に分けたのは私の基準だが、拾得詩を基準にしても同じことだった。
別の見方をすると、拾得詩は真作、寒山詩は真作に後世作が混ざったのだらう。
良寛の 詩の傾向を 調査して 真偽について 良寛の 考へ方を 探索しよう(終)
良寛(七の三)歌(百六十ニの三)へ
良寛(八)へ
メニューへ戻る
歌(百六十ニの三)へ
歌(百六十三)へ