千六百ニ十一(和語の歌) 寒山詩を読む、良寛が目指した
辛丑(2021)
十月一日(金)
良寛の目指した寒山詩を読み始めた。底本は宮内庁書陵部の蔵本(を元にした近代出版物)で、一部異なる。
一 重巌に我れ卜居(ぼくきょ)す (中略) 虚名定まり何の益か
意味は、岩の重なる地に選び住み(中略)世の虚名は無益だ、となる。この詩は良寛と思想が完全に一致する。
二 凡そ我が詩を読む者は 心中須らく護浄すべし (中略) 今日仏身を得るは 律令の如く急急
意味は、寒山詩を読む人は、心を正常にしてほしい (中略) 今日仏身になれるは、早急である。
寒山詩は、
(1)寒山(または拾得、豊干)の作ったもの
(2)寒山(または拾得、豊干)が作ったものの仏道または大自然での清貧とは無関係のもの
(3)寒山(または拾得、豊干)以外の作ったもの
の三つに分類できる。一とニは、(1)である。
寒山詩 仏の道を 説くものと 大自然での 清貧を 描くものこそ 三聖が 作ったものに 間違ひはない
四 (前略)喃々(なんなん)と黄老を読む 十年帰り得ず 来た時の道を忘却す
黄老とは黄帝と老子で、どちらも道教だ。この詩を以って、寒山は十年間道教だったとほとんどの人は考へる。私は、寒山以外の人の作だと思ふ。それは次の二つの理由による。
1.道教から仏道へ、宗旨を替へた詩がない
2.十年間で道教を止めたとは書いてなく、その後も続いた。来た道を忘れては、国清寺に行けないから、仏道に宗旨を替へることは困難だ。そもそも寒山は、国清寺で余ったご飯をもらひ、山で生活した。来た道を忘れたら食べ物に困る。
十月二日(土)
五十三 一向(ひたすら)寒山に坐し 滝(ひさ)しく留り三十年
昨来親友を訪ねる 太半は黄泉に入る (中略) 覚えず涙は雙(ふたつ(のほお))に懸る
良寛の、知人の死を嘆く多くの詩は原点がここにあった。決して六道輪廻を忘れた訳ではなかった。
一六五 閑に高僧を訪れば 煙山は萬萬として層なる
師親しく帰路を指せば 月は一輪の燈を掛かる
高僧とは豊干のことだらう。夜道を帰るから、寒山の洞窟は国清寺から遠くはない。寒山を奇人とする文書は、寒山詩にある僧団批判に腹を立てた人たちの作に違ひない。それは
一七九 多少の天台の人 寒山子を識らず 真の意度を知ること莫く 閑言語と喚び作す
に現れる。
一八〇 一たび寒山に住み 万事を休む 更に雑念の心頭に掛かる無し 閑に石壁に詩句を題し 任運還た舟を繫がざるに同じ
任運は、良寛が師匠から印可されたときの偈であるとともに、良寛の生き方そのものだ。その原型がこの詩にある。
寒山は 宗派批判を 繰り返し 後の悪僧 奇人と記録
十月三日(日)
次に豊干の詩である。。
一 天台に来て自り 凡そ幾萬廻を経る (中略)寒山は特に相訪し 拾得は常に往来す (以下略)
幾萬廻は、幾萬日と私は解釈した。寒山はときどき来て、拾得はいつも来る。当時から国清寺の僧から奇人扱ひされてゐたら、来るはずがない。
拾得の詩では
七 般若酒は冷冷 多く飲む人も醒め易し (以下略)
般若酒は、よい言葉だ。それに対し、日本の僧団が、酒を般若湯と呼ぶのは、嘘をついたことになる。酒を湯だと呼んだのだから。良寛は、酒と正しく呼ぶから偉い。
二二 寒山は自ら寒山 拾得は自ら拾得 凡愚豈に見知るや 豊干は却って相識る(以下略)
三人の関係を示す。
二三 (前略)寒山は是れ我が兄なり
これも寒山と拾得の関係を示す。兄と云っても本当の兄弟ではなく、さう思ってゐると云ふ意味だ。
寒山と 豊干拾得 良寛で 海を挟んだ 四隠四聖に(終)
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