千六百ニ十五(歌) 付録(法眼慈應「近代詩訳 良寛詩集」を半分称賛半分批判)
辛丑(2021)
十月二十一日(木)
法眼慈應「近代詩訳 良寛詩集」は、称賛したくなるとともに、批判したくなる。まづ称賛としては、正字体、正仮名遣ひ、文語体、和語、定型詩。今後の日本にあって、定型詩を目指す若い人たちは、ぜひこの書籍を参考にしてほしい。
批判としては、すべてひらがなだから、読みにくいし、意味を取りにくい。一番の
ひとはりのこと われにあり

は、良寛の書き下し文
我レニ 一張ノ琴アリ

を読まないと何の事だか分らない。読みにくい理由は、高橋和夫さんがあとがき「法眼慈應先生のこと」に
別れ際にいきなり先生は、古びた大部の草稿を手渡され、「この良寛の漢詩の近代詩試訳を私の形見として先生にもらってほしい」と言われた。

つまり出版を意図して書いたものではなかった。
法眼慈應さんは筆名で大正四年生まれ。同十年にお寺の日曜学校に参加し名を賜ひ生涯の筆名とする。その七年後にメソジスト教会で洗礼を受けた。詩歌の研究会を作る。造船所の重労働の傍ら、独立した牧師として病床伝道。
だからニの詩の
いたましきかな みつのよのひと (中略) ゆききするのは むつのよのみち (以下略)

の書き下し文は
痛マシイ哉三界ノ客 (中略) 六趣ノ岐(チマタ)ニ往還シ (以下略)

「みつのよ」は三界、「むつのよ」は六趣で、別のものを同じ「よ」と訳すのはよくない。仏道とメソジスト教会で、知識範囲の差が出た。どちらが優れてゐると云ふのではない。範囲の違ひだ。
一七〇の補註に、昭和十四年、補充兵として招集が来て
新約聖書と『良寛詩集』、また『歎異抄』を入れて出征した。中国へおもむき、いくたびも作戦に参加したが、いつもこの三冊に支えられた。この身が、率先して先発隊を志願したのは、一つには逃げおくれた中国の人たち(お年より、婦女子)をお助けしたいからであった。

補註は最後で
私のようにいたらぬものが、平常心を保ち人を愛するこころを失わなかったのは、この三冊のご本のおかげだと思っている。復員して以来四十四年になったが、文語聖書と寿翁(スウェーデンボルグ)の神学書、また良寛さまのご作品と、多くの仏典がこの身の精神的支柱になっている、感謝。


十月二十ニ日(金)
詩は五七、七五、七七など異なるが、どれも読んでゐて定型詩と感じるから心地良い。そんななかに長歌もある。枕詞も用ゐる。二八の
むらぎもの こころのみづは
すみとほり そのはてみえず
(中略)
まよひのあみに まとひつかるる

和語の歌を作るときに苦労するのは数字だ。四七で五時八教を
いつつやくさの みをしへを

と訳す。七八で
柳娘二八(にはち)ノ歳


りうじょことしは にはちかにくか

と訳す。この補註に
私がかつて九州の旅の途次、若い婦人(婦人伝道師)に会った。彼女が言うには「せんせい!わたし二八(にはち)の年になりました」。しかしどうみても十六(にはち)や十八(にく)の年とは考えられないが、「そうですか」と答えておいた。ほんとうは二十八になったといったのだろうが、こちらは「むかしにんげん」ゆえ、二八(にはち)といわれるとすぐ十六としか考え及ばなかった次第。

八八では
佛説十二部


ほとけのさとし とあまりふたつ

八九は
十法佛土中


とをのほとけの くにつちにおいて

一五〇の
爾來二千七百有


にちななもも とせまりのち

と訳す。
良寛の 近代詩訳 その中は 長歌もありて 枕詞も


十月二十ニ日(金)その二
新潟県内の高校教師を勤める傍ら、良寛顕彰で有名な谷川敏朗さんが、はしがき「良寛と蓼山人 本書によせて」を書く。そこに
良寛は禅僧だが、晩年には宗派を超越して仏教の根本に至り、さらに仏教をも超越した。

最後の「仏教をも超越した」だけは、納得がいかなかった。しかし翌日に、私自身も谷川さんと同じことを考へることに気付いた。すべての人は、正しい事と間違った事をする。良寛も例外ではない。谷川さんと私は、良寛はすべて正しいと思ってしまった。
良寛は、徳川幕府の寺社政策に組み込まれた僧団に反発した。後に、達磨が伝へた一つの宗派が、幾つもに分かれたことも批判した。一方で、晩年には僧団に所属した僧と比べて怠慢と取れる行為もあった。
良寛が晩年に弱気を吐くことがあった。これは老いから来るうつ病だらうし、それは曹洞宗の長年のやり方と異なったための弊害だらう。各宗派は長年の経験で、僧は弟子を育てる、寺で係に就く、隠居後はかうすると、型が出来る。それは弊害を避ける智慧でもあった。(終)

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