二千二百八十五(和語のうた)飯田利行「大愚良寛の風光」(その二、和歌編)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
三月三十日(土)
飯田利行さんの二冊目は「大愚良寛の風光」で、この書籍も前に特集を組んだ。この書籍の法華讃も取り上げた。今回はまづ


うあ

 

いあ

軽重

うい


いい


うう


いい

重軽

うえ

 

いえ


うお

 

いお
について、良寛の甥が竹製の箱から発見し、鈴木文台が軸物にしたと伝へられる。
良寛の国語音韻論の骨子の背景にあるものは、良寛が万葉集を中心に上代の歌謡の美しさと、その用語用字が醸(かも)し出して我が国の人々の想いを和らげた言霊の荘厳さなどを表出せんがためのものであった。

これらは江戸時代の音韻文法学者が考へた体系と一致すると云ふ。良寛は解良栄重、阿部定珍、貞心尼に教へた。現在、これらに言及する人がゐないのは、難しすぎる。小生も、まったく分からない。
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良寛和尚歿後百五十年記念事業として編纂された『良寛伝記・年譜・文献目録』(昭和五十六年七月良寛全集刊行会刊)によると、中央の歌壇で最初に良寛さんの歌について論じたのが正岡子規、ついで伊藤左千夫、佐佐木信綱、斎藤茂吉等がこれにつぐと見えているが(以下略)

とある。しかし昭和十五年の文献により、八一が子規宅を訪問し、良寛を子規に話したところ、子規は知らなかったので歌集を贈った、とあるさうだ。
良寛さんの歌や詩の特色を要約すれば、音調美に在る。(中略)良寛さんの詩は、平仄法には、まるで無頓着であったが、平仄法がもたらす音調美は、充分に留意しての構成法をとっている。良寛さんは、古来の日本詩人が試みなかった華音つまり中国音によって音読法を意識していた。しかも良寛さんは、これを唐琴によっての琴曲として節づけることも可能にした。

次は左千夫に入り、左千夫の
「(前略)良寛禅師は其人即総て詩なり、其心即ち詩なり、其詞即ち詩なり、されば目に見たる物におのづから動ける心を口に出でくるまゝの詞にて直ちに歌とせり(以下略)」

或いは
「(前略)平凡にも精神あり生気あり(以下略)」

飯田さんは
会津八一が、良寛歌の特色音調美を自作の歌の土台としたということについては、前述した。しかるに左千夫は、歌論としてこの点を強調した最初の歌人というべきであろう。
軽快にして渋滞なく 清高にして曇りなし、(以下略)

太字部分は飯田さんが横に点々を付けた部分で、飯田さんが気に入ったやうだ。小生も同感である。例として左千夫は
  秋はぎの 枝もとをゝに おくつゆを 消たずもあれや 見む人のため
  秋の野に にほへて咲ける 藤袴 折りて送らむ 其人なしも
天高く家静かなる朝夕、無念朗誦以て始めて是等の歌の妙を感じ得べきなり、(以下略)
  いにしへの 人のふみけむ ふる道は あれにけるかも ゆく人なしに

一方で
「禅師の淡白清高自然なる長所は一面に豪健熱烈荘厳等の趣味を欠けり。是れ禅師の短とする所なりと雖も、作者と作物との関係を重ずる上より見て、禅師の作歌中、是れは禅師の柄になき歌なりと思ふもの一首もなきは、却て禅師の高きを敬せざるを得ざるなり」

これに対し飯田さんは
左千夫の指摘は正鵠をえている。たゞし良寛さんは、豪健熱烈、断腸のもいとか、警世自戒、寸鉄人を刺す一念は、詩というジャンルにまかせていた。


三月三十一日(日)
佐佐木信綱の引用は
「清適の生涯を送って書と詩歌とにすぐれて居た僧良寛の歌集には、その悠々として事物に執着せぬ為人も忍ばれて、おくゆかしい作が少なくない。その歌風は万葉調であるが、その弊としては構想と言うことを殆ど度外視して、その極、余りに単純に過ぎる作のあることである。その勝れた作には、(十六首を挙げる。ここには左千夫が「僧良寛の歌」に挙げた歌と重複する八首だけを左に示してみる。)
山笹に 霰たばしる 音はさらさら さらりさらり さらさらとせし 心こそよけれ

左千夫や信綱と、小生の違ひは、破調に対する許容度にあることを改めて感じた。小生は音の数を合はせる努力には、美しさがあると感じる。良寛さんは、旋頭歌ではなく、散文として或いは書として、この作品を書いたのではないだらうか。続いて
  風涼し 月はさやけし いざ共に おどりあかさむ 老のなごりに
  いざうたへ われ立舞はむ ぬば玉の こよひの月に いねらるべしや
  月よみの 光を待ちて 帰りませ 山路は栗の いがの多きに
  柴の戸の 冬の夕べの さびしさを うき世の人に いかで語らむ
  古への 人の踏みけむ 古道は 荒れにけるかも 行く人なしに
  山かげの 岩間を伝ふ 苔水の かすかに我は すみ渡るかも
  高砂の をのへのかねの 声きけば 今日の一日も 暮れにけるかも

斎藤茂吉に入り
「なほ、宗武・良寛の歌の共通点を算へた中に、共に万葉を悦で万葉に拘泥せざる所、どこまでも自己の感興を基礎として決して空想的に歌を作らざりし折、自然にして清高なる所、感情醇正にして然も温和なりし所等がある。
この二人の歌については突つむれば、『吾詩即我なり。(以下略)

これは、これまでに多くの人が述べてきたし、小生もさう思ふ。
越沢洋(一九二五~)は、筆者の教え子である。(中略)「あわ雪の 中にたちたる 三千大千世界(みちあふち) またその中に あわ雪ぞ降る
・・・・霏々と沫雪の降る虚空に三千大千世界の顕現する幻想を見る、そしてまた、その幻想の中にうつつの沫雪がしきりと降るというのである。
こんな超大な詩的イメージを歌いこめた和歌がかつてあっただろうか。」

ここまでだと、単に風景だが
「それはまさに身心脱落によって現成する美であった。(中略)自然や対象に対立することによって成る美ではない。むしろ己れを没することにおいて現成するのである。

これも同感。前に紹介した飯田さんが大千世界をさとりと訳注とも一致する。
みちあふち良寛さんの生きた跡歌にて探し沫雪が降る


四月一日(月)
昨日は四十五頁までで、歌の話題は一段落する。次からは詩と宗学の話になるが、かなり後の百五頁に、歌の話題が少しだが出てくる。
もともと万葉集は、六朝期の爛熟した詩風を模倣したものゆえ、流れるような音調美を身上にしている。したがって良寛の歌の心情は素朴であるが、表現は旋律をたたえて美しく、表記の上では、視覚美を満喫できる。(中略)この万葉仮名表記法は、古今集以後、漢字漢語の使用を斥けることを旨とした体制派をよしとする歌人たちの夢にも見ることのできなかった回天の偉業であった。

これは成程と思った。
筆によるよろづ葉仮名の美しさ 書かれるまでは誰もせず 云はれるまでは誰も気づかず

反歌  良寛の歌の中には音と筆新た現れ忙しくなる(終)

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