千六百八(歌) 森鴎外「寒山拾得」
辛丑(2021)
九月二十ニ日(水)
長谷川洋三「良寛の思想と精神風土」では、寒山を奇人、詩人として扱ふ。しかし寒山は僧だ。例へば、国立文化財機構のホームページを見ると、重要文化財「寒山拾得図」の解説に
寒山と拾得は中国・唐代の僧で、奇行が多く、文殊・普賢の化身と称された。その飄逸(ひょういつ)な姿を組み合わせて、中国や日本の禅宗寺院に所属する画僧がしばしば絵に描いている。ふつう寒山は巻物を手にし、拾得は箒を持つ姿で描かれる。(以下略)
とある。森鴎外の小説に「寒山拾得」がある。閭丘胤(りょきゅういん)と云ふ唐の役人が、長安で主簿(帳簿を管理する長)の任命を受け、任地に出発しようとした。すると頭痛が起き、そこへ乞食坊主が来た。台州に行くことと頭痛を知ってゐた。そして治した。お礼をしようとすると
いや。わたくしは群生を福利し、驕慢を折伏するために、乞食はいたしますが、治療代は戴きませぬ
と云ふ。名を訊くと、国清寺の豊干であった。台州に行くので国清寺の誰に会へばいいか問ふと
国清寺に拾得と申すものがおります。実は普賢でございます。それから寺の西の方に、寒巌と云う石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文殊でございます。
閭は任地に着くと、国清寺に行った。主簿の御参詣なので道翹(国清寺碑に寺主とある)と云ふ僧が案内し、拾得について
厨で僧共の食器を洗わせております
寒山については
石窟に住んでおり(中略)拾得が食器を滌(あら)います時、残っている飯や菜を竹の筒に入れて取っておきますと、寒山はそれを貰いに参るのでございます。
厨に到着し、閭が
恭しく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」と名告(なの)った。
二人は(中略)腹の底から籠(こ)み上げて来るような笑声を出したかと思うと、一しょに起ち上がって、厨を駆け出して逃げた。
(中略)驚いて跡を見送っている閭が周囲には、飯や菜や汁を盛っていた僧等が、ぞろぞろと来てたかった。道翹は真蒼(まっさお)な顔をして立ち竦(すく)んでいた。
道翹は真蒼な顔をして立ち竦んだのは、寒山と拾得が普賢菩薩、文殊菩薩(この時点では、それと同等の者)だと知らなかったためだ。
寒山と 拾得こそは 良寛が 目指した姿 国上山 国清寺とは 四百里 一千年が 離れても 彼岸を目指し 熱意が埋める
(反歌)
良寛に 清国渡航 あったなら 国清寺へと 寒山詩にて(終)
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