千六百ニ十二(歌) 西谷啓治「寒山詩」
辛丑(2021)
十月三日(日)
西谷啓治「寒山詩」と云ふ書籍を読んだ。昭和四十九年に出版された世界古典文学全集「禪家語録Ⅱ」を昭和六十一年に再発行したものである。
読んだ感想は、教義の複雑化の典型と、根拠はないが西谷啓治さんは禅宗の寺の息子ではないかと云ふことだった。この本全体で唯一同感だったのは
機械文明から自然を保護せよとやかましく言はれる。自然を「護る」とはどういふことであるか。(以下略)

このあと三ページ続くこの部分だけだった。今は「護る」ことすら云はなくなった。地球温暖化をどこまで認めるかだけだ。
昭和の世 四十年代 終はりまで 機械文明 そのものを 批判しそして その訳は 自然を護る 意識があった

さうなったのは、世界情勢だ。
この頃は 貿易黒字 萌芽の時代 ベトナムで 共産主義が 最後の勝利


十月四日(月)
インターネットで調べると、西谷啓治さんは明治33(1900)年生まれ。哲学者(宗教哲学)。京都学派に属する。京都大学名誉教授、文化功労者。ドイツ神秘主義を研究し、後半生は禅仏教に傾倒した、とある。
元々の専門外だからこの程度になったのだらうが、内容の複雑化はいただけない。そして何を言ひたいのか不明だ。内容だけが多い。前半生の名声で、禅に傾倒した後半生のてんこ盛りの内容を惰性で走り切った。そんな印象を受けた。
哲学は どこで社会に 役立つか それが無いなら 優秀な 人が来ないで レベルが落ちる 印哲同じ

印哲とはインド哲学のことで、仏道に限らず当時のバラモン教などにも範囲を広げる。国立大学は特定の宗教に偏らないため昔からこの名称を用ゐるし、私立大学も宗派系以外の大学では、学科名を変更する傾向にある。寺の息子、娘などが多いので、レベルが下がることが心配だ。自分の宗派に固執して、パーリ文献のあら捜ししかしない。

十月五日(火)
この書籍で気になるのは、白隠の著作をさかんに引用することだ。寒山詩の作られたのは、白隠より遥か昔だし、後世に白隠が解釈することは、想定されてゐない。白隠を引用するなら、白隠についての書籍ですべきだ。「白隠と寒山詩」などの題名で。
それでも西谷さんは、白隠よりは穏健だ。
白隱は(中略)普通に解すれば禪味とでもいふべきものがそれ程あるとは思へないやうな一群の詩に對して、特に禪的な意味を付與してゐる。

寒山詩は国清寺だから中国天台宗、白隠は禅系の臨済宗。無理がある。(終)

メニューへ戻る 歌(百六十ニの二)へ 歌(百六十ニの四)へ