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良寛と歌論を分離
二千九十三(うた)良寛と歌論を分離した経緯
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月十五日(金)
かつて「和歌論」と「良寛」は、別リンクだった。半年以上追加がないリンクは、リンク自体は残すが、項目一覧から削除することにした。良寛は、特集として連続(例へば「一の一」から「一の十六」まで)することがある一方で、暫く遠ざかることもある。そのため、良寛のリンクと和歌論のリンクを合併することにした。昨年一月のことである。
その後、今年一月に良寛特集を集中させたときに、便宜のため「前の和歌論は」「次の和歌論は」と云ふ小型リンクを付けた。
今月四日に与板を訪問したときに、同じく「前の良寛へ」「次の良寛へ」の小リンクを付けた。その後前に遡り(2010)「良寛、漢詩、和歌」と「和歌論」に分割することにした。実際に分かれるのは(2083)である。予告と実際が離れたのは、項目名が「良寛の出家、漢詩。赤彦その他の人たちを含む和歌論」だったためで、本来は項目をあと十か二十続けたあと「良寛の出家、漢詩、その他の人たちを含む和歌論」へ戻す予定だったが、予告に遡って変更すると「文明」が消へてしまふ。
小生と文明は、作歌方法と歌論がまったく異なる。小生と子規、左千夫も異なるが、それ以上で、戦後に文明は大きく脱萬葉集になった。それにも関はらず文明を項目名に入れたのは、師への恩を忘れないことに感心したためだった。その点は、赤彦や茂吉も同じだが、茂吉は門人たちが悪かったのだらう。
良寛の歌では、特集も多く作ったので、「良寛」と「歌論」で重複するものが多いと思ったが、合併してゐる間は四つだけだった。「良寛の出家、漢詩。赤彦その他の人たちを含む和歌論」には入ってゐなかったが、旅行関係で新たに「良寛」リンクに入れたものが二つある。分離の時に、合計が合はないのは、これが理由だ。
どうしても、良寛に集中すると歌論の間隔が開くし、歌論に集中すると良寛が開く。歌論は、八一、牧水、みどり、子規、左千夫、茂吉、文明、萬葉、古今、新古今と範囲が広い。今後は、良寛が六ヶ月以上開かないで特集を組むやうにしたい。
今回分離の前に「良寛」小リンクを付けたのは、良寛愛好者で当ホームページを見る人への配慮だった。これまで小生の思ふことだけを書いてきたが、与板旅行で良寛の里活性化研究会代表浜田さんにお会ひし、浜田さんは全国良寛会の評議員も務めるため、良寛会に配慮して小リンクを付けた。付けてみると、「良寛」「和歌論」が同じ項目なのは不便だ。そこでリンクを分けることにした。
与板にて良寛会の関係者お会ひしたので これからは全愛好者配慮で分離
反歌
良寛を広める前に越後線繁栄のため皆で工夫を(終)
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