二千八十四(うた)与板訪問記
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月四日(月)
良寛の父以南の出身地であり、弟が隠棲した地であり、良寛が塩之入峠を越えてしばしば訪れた地でもある与板を訪問した。昨年の六月以来久しぶりに大人の休日倶楽部パスを使った。長岡まで新幹線に乗り、越後交通のバスで上与板まで移動した。
越後交通のバスは、東急バスと同じ配色だ。そしてウルトラセブンと似てゐる。ウルトラセブンは赤が多く銀色が少ない。越後交通と東急バスは、銀色が多く赤が少ない。発車は九時十分なので、まづ長岡信金本店でお金を下ろした。信金ネットは、よその信金のカードを平日八時四五分から手数料なしで利用できる。本日は八時五十分だった。
バスの車内で、前に和島からの帰りに通ったことを思ひだした。バスは与板中町で降りた。予め印刷したインターネットの案内図によると、上町と千体橋の間を天地人通りに向かったところに公衆便所がある。年を取るとトイレが近くなる。道を戻る形だが、以南句碑の標識を見つける事も出来てよかった。天地人通りは遊歩道で、そのときは排水路を暗渠にしたのかと思った。これは後に出てくるが、越後交通長岡線の跡で、田中角栄と合はせれば観光資源となる。
このあと以南句碑を始め、弟由之隠栖遺跡、大坂屋河渡、良寛詩歌公園など地図に載るものを廻った。まちの駅よいたは下記に独立させた。今回最も興味があったのは、塩之入(り)峠への山道入口である。与板藩主井伊直輝によって改修され、良寛の詠んだ
しおのりの坂は名のみになりにけり行く人しぬべよろずよまでに

を確かめたかった。まづトンネルの入口まで行って、前回はバスで通過した。山道を少し進むと、蜘蛛の巣が多い。坂は緩やかで名のみだ。ずっと先まで行きたかったが、今回は街中で時間を取ったのと、もし和島側に抜けた場合の時刻を調べてないため、少し歩いただけで折り返した。

九月七日(木)
まちの駅よいたで、良寛の里活性化研究会代表の方(名刺を頂いたが紛れ、しかし紛失することは無いので、出てきたら誰だかわかる。ホームページだと浜田さん)とお会ひした。
小生も、良寛の里を活性化することを切望してゐる。と云ふのは、和島と与板で空き地や売地が目立った。何とかしなくてはいけない。と云ふことで、小生も考へた。
1.良寛の名を知る人は多いが、何の人かを知る人は少ない
小生が良寛に興味を持ったのは、下の子の大学入学式の帰りに寺泊へ寄った。そのとき良寛記念館への矢印があり、帰宅後に良寛を調べた。小生は、鶴見に住んでゐたときに総持寺(曹洞宗大本山)の参禅会に参加したのに、良寛が曹洞宗だとは知らなかった。
そもそも下の子は、国公立大学卓球大会で優勝または準優勝する大学に進学しただけであって、新潟県とは無縁だった。もし入学しなければ、小生は良寛とは無縁だった。一般の人の知識はこの程度である。
新潟県の人は、良寛が全国的に有名だと思ってゐるが、実際は名前を聞いたことがある、程度だ。これを一段階上げると、(2)どう云ふ人か知ってゐる、二段階上げると、(3)良寛を尊敬する。全国の人たちを二段階上げないと、良寛の里へは来ない。
2.越後線を、良寛の里線とJRに変へてもらふ。
信濃川は、信濃から流れて来るから越後ではさう呼ぶが、信濃では千曲川と呼ぶ。もし信濃で信濃川と呼んだら、ずいぶん間の抜けた話だ。同じやうに、越後線は間の抜けた名称だ。元は越後鉄道だったが、そのことを知らない人がほとんどになった今では、改名すべきだ。それには良寛の里線がよい。改名と同時に、全国の良寛段階を二つ上げよう。それにはきっかけが重要だ。
3.上与板駅跡を、田中角栄と組み合はせて活用
上与板駅跡は、公衆化粧室兼、長椅子が作られ、天地人通りには線路の絵が描かれてゐる。或いは、越後交通長岡線で唯一の史跡ではないだらうか。長岡線と云っても今の人には馴染みがないので、田中角栄と組み合はせる。晩年にロッキード事件があったが、角栄ほど偉大な政治家は明治維新以降で数人しかゐない。
角栄が国会議員になった当時は、中選挙区の下位だった。それが有力者になったのは長岡線を黒字にしたことだ。そして田中派の会長となった。角栄と長岡線黒字を語る遺跡が、上与板駅跡だ。天地人通りは、長岡線線路跡(天地人通り)とするとよい。
与板には 良寛偲ぶゆかりの地 長岡線の線路跡これは角栄功績の三つのうちの一つにて 直江兼続城の跡 今に伝へる三つの時代

反歌  角栄は今太閤に長岡線黒字日中国交回復
反歌  秋津洲初めて足を踏み入れるオスのカンカンメスのランラン
塩之入の、名のみの坂も観光価値がある。和島までは抜けないまでも、少し歩けるとよい。今は蜘蛛の巣が多く歩き難い。
塩之入(り)の峠を越える 新しき道が坂とは名ばかりの 老ひて超えるは喜び背負ふ

反歌  良寛が坂は名ばかり名言を歌詠みここは塩之入(り)峠
このあと、どうすれば観光客がお金を与板に落とすか。それを考へたい。

九月八日(金)
観光客が来ても、短時間で出発するのでは、与板の産業が発達しない。与板と和島を組み合はせると、どちらかで一泊しようとなるが、どちらにも宿泊施設が無い。旧与板町では馬越に越乃湯旅館があり、与板から4Km、本与板から3Kmで、かなり苦しい。
志保の里荘は社会福祉法人の経営なので、宿泊施設を作っても黒字化は難しい。と云ふか民間でも難しい。志保の里荘が今年四月に料金を改定した。今まで五百円だったが、市内四百円、市外六百円にした。なるほど長岡市民を顧客対象にするのはよいことだ。
和島と与板は、長岡市街から日帰りで来る人たちが昼食や夕食を食べたりお土産を買ふ場所とする。と同時に、全国から長岡へ観光客が来るやう協力する。河井継之助の中立路線と、田中角栄の越後線黒字化。どちらも最後は失敗したが、継之助の藩政改革と、角栄の電化路線は、かなりの期間に亘り成功した。
二つには共通性がある。更には、直江兼続も上杉家家老としてかなりの期間成功したが、関ヶ原の戦ひで失敗した。途中まで成功して最後に失敗するのは、三国志、弁慶、太閤記(秀吉の死後を含めて)と同じで人気が出る定石だ。
全国から長岡へ来る観光客を増やすとともに、一定割合が和島、与板へ向かふことを見て、長岡市民も和島、与板をしばしば訪問するやうになる。(終)

追記十一月二十三日(木)
浜田さんの名刺が出て来た。ティッシュの紙の裏側に入ってしまったのを見つけた。名刺の、表は良寛の里活性化研究会、裏は自営の商売用だ。メールは裏面に載るので、早速メールを出した。宛先名不明で戻って来た。商売を引退し、そのあと活性化研究会をされたやうだ。
電話番号や住所も載るが、今頃になって手紙を出すのは変なので、出す機会を喪失してしまった。

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