二千十(和語のうた)最新の良寛論、最新の歌論(その七)、曹洞宗で観を補ふ方法
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
五月十七日(水)
良寛の実父について同意見の論文の最後にさりげなく書いたが、良寛は出家することで育ての父以南と良好な関係になった。そして弟や妹たちとは従来の良好な関係を続けた。江戸時代の倫理観で、良寛は育ての父を実父とした。これが小生最新の良寛論である。今時点の最新だから、将来変はる可能性はあるが。
良寛の父が誰でも 良寛は育ての親を尊びて 家を出た後父及び弟及び妹と 心通はせ命を終へる

反歌  良寛は父弟と妹が多く先立ち苦しみも多し

五月十八日(木)
川端康成の「雪国」は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の内容と文体が、最後まで続く訳ではない。歌は一首一首が独立するとは云へ、全体では小説と同じやうに、作った歌と同じ題材と調べをいつまでも続けてはいけない。
だから小生は、和語のみにしたり、枕詞を後ろにしたり、幅広く作ってきた。この場合に、調べを壊してはいけない。醜い歌を作ってはいけない。破調の歌を作ってはいけない。

五月十九日(金)
二千四の「イオンへは戸田車庫行きと同数がイオン減便車庫は消滅」について解説すると、大きく減便になったことを感慨深く詠ったもので、決して便数の説明ではない。更に、戸田車庫行きと同数、つまり全体で二倍に増えた喜びと、それが徐々に減った感慨を詠ったものだ。
半月ほど前だらうか、読んだ本に、短歌は抒情詩ではなくてはいけない、と書いてあった。これは正しいが、一歩間違へると小生の歌感とは異なったものになる。
一歩間違へるとは、心の動きだけを詠ふことだ。そこで気付いたことは、小生が西行を嫌ふのは、心の微細な動きを描くからだ。小生は、景色や事実を描くことで、抒情を伝へたい。

五月二十日(土)
歌作りには止観の効果がある。半年前に、そのことを指摘した。良寛の修行した曹洞宗は、止観のうち止のみだ。両祖は別の方法で、観を補ふとともに、止をも補強した。
大和うた(歌)もろこし(唐土)のうた(詩)筆で書く 止めると観るの働きを 果たし良寛仏への道

反歌  道元はふみ書くことで止める観る働きを為し仏への道
反歌  瑩山はお寺を増やし止める観る働きを為し仏への道
これらのほかに、経典研究、古文書研究で果たすやり方もある。作務で果たすやり方もある。

五月二十一日(日)
メモ書き歌(信濃旅行余韻)の「左に曲がり新しき高い速さの道走る」について「右に曲がりて」とあったので、本日直した。ホームページは後から直せるが、直筆のものは直せないし、贈答すれば間違へたことすら気付かない。 長歌や短歌で、五が続いたり七が続いたことに気付き、数日経過してから直したこともある。
良寛の歌でごく稀に破調の歌があり、良寛は破調に寛大だったと書いた本を読んだことがあるが、さうではなく間違へただけだ。五が続いたり七が続くのも同じだし、内容に違ひがあることもある。
今は、修正が便利だし、単語や内容も検索で簡単に調べることができる。今の感覚で論じてはいけない。
今の世は 調べる直す書くことがやさ(易)しくできる だがそれは星滅ぼすと引き換へとなる

反歌  良寛の時と今とは世が違ふ星を滅ぼす悪き今の世(終)

追記五月二十六日(金)
大和言葉で歌を作ると、うっかり音読みを入れてしまったり、音数が合はないのに気づかなかったりこれは普通の歌でもある。
歌を詠む 大和言葉が柔らかく調べも佳くて聞きやすい だが難しく間違へやすい

反歌  歌を詠むたまには大和言葉にてほかの歌まで佳きを作れる

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