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天才の良寛
二千九十七(うた)天才の良寛だとどうなるか
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月十八日(月)
二つの良寛像で、良寛を(1)心優しい、(2)真の僧侶、の二方向に考へることができた。ここで(2)を「天才の良寛」と定義するとどうなるかを考へよう。
最初は「天才の良寛」とは、世間の基準とは別のもので測ると極めて優れた人だ、と文章を進めるつもりだった。ところがいざ書き始めると、どこが天才なのかと、小生まで疑問を持つやうになった。書や漢詩や歌に優れても、同じ程度の人はたくさんゐる。
幕府の宗門政策で、改宗ができず本山と末寺の関係が厳しい中で、それからはみ出し、しかし定住してからは皆に慕はれた。これは天才だが、少し弱い。優しい良寛は、実は正しい修行で成仏した姿ではないのか。これなら天才だ。しかし、どうやって正しい修行を為したのか。
ここで小生は、道元に倣って渡航したこととするが、渡航したかどうかは意見が分かれる。越後へ帰郷するまで修行を続けた。これなら誰もが納得するだらう。
九月十九日(火)
良寛は円通寺時代に、人一倍修行に熱中した。だから怠け者ではない。良寛の漢詩と歌は優れたものだ。だから凡才ではない。世間の基準で優れる人は秀才、世間の基準では愚かだ奇人だ変人だと云はれても、別の規準では極めて優れる人が天才だ。
二つの良寛像で、(1)心優しい、を選んだ人も正しい。曹洞宗の組織からはみ出し、普通なら乞食坊主か還俗するしかないのに、五合庵、社務所、木村家の庵室と定住し、村人に慕はれた。その生き方こそ天才であった。
(2)真の僧侶、を選んだ人は、逆に心配しなくてはいけない。曹洞宗からはみ出し、越後へ戻ったあとは真言宗や浄土真宗と関係が深かった。宗派を超越したのだが、仏道と無縁になったと考へる書籍も多い。
手毬する良寛こそが成仏の手前の姿 成仏はいろいろあるも本人に出来るものには会ふこと難し
反歌
良寛は行方不明の期間にて仏になるの準備を終へる
(推敲手帳)長歌の四句「手前の姿」は、最初「一つの姿」だった。生涯が修行だから、生きるうちに成仏してはいけない。だから「手前の姿」に修正した。(終)
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