- 「歌あり人あり」


二千九十五(うた)「歌あり人あり」の四分の一
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月十五日(金)
文明の対談「歌あり人あり」を読み、前の部分四分の一は左千夫一門を知る上で、とても為になった。ところが残りの四分の三は、雑談集になつてしまつた。と云ふことで、四分の一を紹介したい。
世間では、赤彦が晩年に鍛錬道なんていうことを言ったから、非常に堅苦しい旧式の人のように思うんですけれども(中略)むしろ自分に対する戒めのようなもんでしょう。

鍛錬道が独り歩きして、それが原因で赤彦がアララギの編集をしてゐたときに多くが離脱したと云ふ記事を読んだことがある。まったくの出鱈目だった。
よく、斎藤さんも、故人談をするときに、赤彦と左千夫先生はつきたての餅のような、ちょっとさわるとベタリとつくところがあるが、われわれはだめだなあというような話をしたことがあります(以下略)

赤彦と千樫が疎遠になつたことについて、千樫が
ずぼらで、(中略)それが主な原因ですよ。それは、平福(百穂)さんにしても、古泉さんをよく世話したんだが、疎遠になった。

大正から昭和にかけて、文明が歌を変へようとしたかの質問に
「アララギ」の歌風に従って作ろうとか、わたしの歌風に「アララギ」の人を近寄せようとか、そんなことは、いつだって、今だって考えませんよ。

大正五年に赤彦が編集の時に、白秋特集みたいなものを出した事について
森鴎外の歌会がきっかけでしょうかね、(中略)一番先に離れたのは、やはり赤彦でしょうかね。

小生は、左千夫の歌は鴎外の歌会やその直後一時的に悪くなるとの立場だから、赤彦も同じに考へたのでは。
文明が上京し、歌を三井甲之へ持って行くと左千夫に云ふと
ちゃんと行く道を教えたり、「こうやって、こう行け」と教えて、歌稿を一ぺん見てくれて(中略)「アカネ」の何号かに載っているわけだな。(中略)初めは左千夫先生だって、三井を優秀な人物だと思って、大いに評価しますしね。三井だって「左千夫先生」「左千夫先生」と思っていたんでしょうから(以下略)

アララギ誌の選歌について
赤彦は(中略)そばにはがきを置いて、会員にそのときどきの歌についてちょっと一言書いてやるんだ」と言うんですね。(中略)これは赤彦は教育者だからね。(中略)ぼくのはもうぞんざいなんだ。なるべくなら没書にでもしたいほうなんだけれどもね。(中略)まあ一首は採る。会員から会費を取っているのでね、全部没書にはしないほうがいい(以下略)

文明は女学校の校長を勤めたが
ぼくらは教員をしていても、月給をもらうだけの教員であって、教育者じゃないんだからね。(笑)そこからいけば赤彦は生っ粋の教育者ですね。

添削について
人によっていろいろだったな。(中略)そういう点からいえば、ぼくは最も悪い選者だな。

左千夫の添削は
左千夫先生はね、まるで自分の歌のように直すこともあったし、そうでないこともあったね。(中略)わたしも先生に見ていただいたんですが、直してもらった期間はごくわずかでしたね。怠けていて、あまり歌は作らなかったから・・・・。左千夫先生に見てもらう人たちのなかで、それは斎藤さんがいちばん熱心でしたよ。左千夫先生がマルをつけないと、熱心にね、「こうしたらどうだろう」とかね、(中略)それがぼくらはそれほど熱心じゃないんだ。歌もろくすっぽ作ってないんだから。だいたい歌を小ばかにしてたのかな。(中略)まだ、だれもその新歌風というか、そういうものを発明していなかったからね、戦後の(中略)あの短歌だかそうめんだかわからないような(中略)ああいう発明があったらまねた組だろうなむ、ぼくらは。(笑)

短歌だかそうめんだか、について
戦後派さ。

小生は戦後派の歌を、歌とは思はないから、明治以降では八一、牧水、左千夫などを取り上げる。文明は、戦後派がまだ発明されてゐなかったから熱心ではなかった。
このあと五十四頁から七十四頁まで飛び、旧派について質問者が「組み合わせれば、歌ができるような式ですか」に
うん。(中略)大正の中頃(中略)がすりかわりの時期かね。

と答へる。組み合はせて歌が出来るのでは困るが、そうめんも困るのではないか。
明治になって"旧派"といっているいちばん多いのは、香川景樹くらいが手本になるのでしょうね。本式には『古今集』かなんか・・・・ということになるんでしょうがね。

根岸短歌会について
あれはね、旧派的な要素はないよ。(中略)集まってきた連中が悪いんだよ。(笑)旧派をやったことのある連中が集まってきたんだからね。

文明の説は変だ。旧派をやったことのある連中ではなくて、歌をやったことのある連中だ。根岸派には含まれない落合直文も、これに含まれる。と云ふことは、与謝野辺りを除くすべてが旧派の影響は受ける。
子規は、新派のうちでも『万葉集』なんかにひっかかった。(中略)ところが『明星』の人たちは、そういうものがなかったのだと。

明星は西洋文学にひっかかったと小生は見る。ここから先は、雑談になってしまふ。だから紹介はここで終了としたい。
江戸時代万葉集に回帰した多くの人を切り捨てて 明治の世子規歌論に賛同し来た人々を切り捨てて 子規も切り捨て万葉も切り捨て歌も不熱心へと

反歌  文明の作歌歌論取り上げず左千夫を偲ぶ心を選ぶ
(推敲手帳)「切り捨てて 明治の世子規歌論に」が五五七と破調なのに、九日間気付かなかった。字数を合はせたが、元の歌のほうが佳いので、元に戻した。(終)

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