二千九十(うた)茂吉「柿本人麿」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月十一日(月)
文明の茂吉短歌合評を読むうちに、茂吉の著作に「柿本人麿」があることが分かり、これを借りた。第一巻の冒頭にある「自序」に
歌人で人麿を云々するのは、往昔からの常套手段だと謂つていい。人麿・赤人が歌聖だといはれて居るのはつまりそれである。

茂吉は大正三年くらいから萬葉集の注釈書に親しんだものの、大正六年の長崎行きと、大正十三年の火事で蔵書を焼き、萬葉集に
接触することなどはもはや叶はぬことに思へたのであつた。そして同人のうちでは島木赤彦、土屋文明の二君が銘々独特の意力を以て萬葉研究に進んだので(以下略)

文明の萬葉集私注は、歌に対し批判的なものも多い。反萬葉に転じたかと思ったが、さうではなかったか。その後長い年月を経て、茂吉も「柿本人麿」を出版することになった。
私は先師伊藤左千夫翁について作歌を勉強してより、もはや三十年を経過した。その間、人麿は常に私の心中を去来しつつあつた人物であるが(中略)先師は嘗て云つた。『古来人麿位判らずやに多くかつがれた不幸な人は少いだらう』(左千夫歌論集巻一)云々。先師は人麿をば或は千古の歌聖として仰ぎ崇んだと共に、或は人麿の歌の形式趣味乱用を指摘し、今また此に不孝なる歌人云々といふことを告白してゐる。

これは貴重な話である。
戦前は 茂吉独自の意見あり だが先師とし左千夫説 共に紹介師の恩忘れず

反歌  茂吉には戦後八年世が変はりまたは門人後に異説を
小生が思ふに、茂吉自身は変化しなかった。世の中が変はり、門人が異説を唱へ始めたのではないだらうか。文明でさへ、萬葉集との距離が遠くなった。

九月十二日(火)
第二巻は自序に
初の評釈計画は長歌全部を除去するつもりであった。私はこれまで一篇の長歌をも作ったことがない。(中略)然るに土屋文明・武田祐吉二氏は、人麿を評釈してしまふことは(以下略)

武田祐吉は佐佐木信綱の『校本万葉集』に従事し、この頃は國學院大学教授。アララギ派ではないが、この当時のアララギ派への評価がわかる。本文に入り
ささなみの志賀の辛崎幸(さき)くあれど大宮人の船待ち兼ねつ

の歌について
第三句の、『さきくあれど』も、結句の、『船待ちかねつ』も、普通、人間の場合にいふやうな表現法を取つてゐる。つまり一種の擬人法的表現であるから、現今の作歌意識から行けば、巧みに過ぐ(以下略)

これはどうか。人麿が辛崎を見て『さきくあれど』『船待ちかねつ』と感じたのではないだらうか。或いは茂吉が云ふやうに、辛崎がさうだとしても、巧みに過ぎることはない。茂吉の歌は巧みが少ないが、それは小生も同じで物語り性で美しさを出した。人麿は過去を回想するところに美しさを出した。茂吉はこのあと
この程度の擬人法乃至主観的句法は漢詩にもなかなか多く、西洋の詩にもまた多い。その西洋詩から脈を引く日本現代の詩にもそれが多いのであるから、あへて人麿のこの擬人法のみといふわけではない。

この辺り、巧みに過ぎると云ったり、人麿のみではないと云ったり、字数稼ぎ、ページ稼ぎではないかと嫌味を言ひたくなるが、それより重要なことは、茂吉が西洋詩まで気にするとなると、茂吉の歌にも影響が出たのではないか。
第三句でサキクアレドと字余りにしてゐて(以下略)

「あ」があるから字余りではない。吟詠を推奨した牧水との違ひだが、アララギ派の字余り認識はこの程度なのだらうか。
字余りを許容するのは 子規系の歌論または 直文の浅香社系の影響なのか

反歌  牧水は浅香社系の柴舟に二年通ふも影響受けず
次に
見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

について
伊藤左千夫明治四十三年にこの歌を評し、『此の短歌は、此の長歌の反歌としては無論あった方が面白いけれど、長歌から引離して一首の短歌として見ると余り価値のある歌ではない。

小生も同感。ところが茂吉は
先師の批評はかくの如くであるが、私は(中略)まだまだ高く評価して居ることが分かる。結句の清澄な響は一首の大切な役目をなしてゐるが、『常滑』などと云つても、作者或は作者当時の人々にとつてぱ、感覚上の写象がもつと船名であつたに相違なく(以下略)

「常滑」と「また還り見む」は、この歌で調べが美しいところで、「常滑」は最初、地名として美しい地名は歌枕並みに価値があると考へた。茂吉も「常滑」を地名と考へたが、追記で石の種類または苔が常に付いた石との説を紹介する。なるほどそれなら、この歌は価値がある。
潮騒に伊良虞(ご)の島べこぐ船に妹(いも)乗るらむか荒き島囘(み)を

について
初句で、『に』と云つて、第三句で、『に』と云つてゐる。これも後世の歌には稀であるのみならず、桂園調などの標準から行けば、『しらべ』が無いと云ふべき筈のものであるが(以下略)

小生は、歌以外の不通の文章を書くときに、同じ助詞の繰り返しを避ける。「の」は繰り返してもよいが、最近は「の」も繰り返さない事が普通になった。この歌は「伊良虞(ご)の島べ」の後ろに「へ」または「を」が省かれたと見て、問題は無いとするのが小生の意見だ。桂園派より緩やかなのかな。
阿騎の野に宿る旅人うちなびき寐(い)も寝らめやも古おもふに

の「うちなびき」について
『其なよよかに臥さまを云ふ也。(以下略)』に大体従ふべく、ただ『寐』の枕詞の格に使つたものであらうと思ふ。

枕詞の格とは、序詞みたいに個人で作った一句に収まるものであらう。文明は、枕詞とした。

九月十四日(木)
長歌の章に入り、前文で
長い形式にするには、その間に声調の調和と抑揚と変化と緊張とを保ち続けて行くのであるから、自然に繰返しとか対句とかいふやうなものが出来てくる。

古い長歌は、対句が美しい。しかし現代から見ると、冗長でもある。歌が吟詠のためを思へば、現代では理解されない美しさである。小生が作る長歌に対句が無いのはそのためである。
人麿の長歌があれほど長くて破綻を来さないのは、全体が緊張して弛緩しないためであり(中略)人麿の長歌に価値があるのは一面は長歌声調の本質に随順したためであり、人麿以後、家持以後長歌が衰へたのは、その呼吸力に於て、その緊張度に於て不足して行つたためである。

なるほど。そして
緊張度の衰へたことは、表現の方面からいへば、『連続的表現法』が駄目になつたためだといふことも出来る。

明治になり
根岸派の歌人等は数名長歌を好くしたに過ぎず、左千夫も節も晩年には長歌から遠ざかつた。

明治以降の長歌についても、今後調べてみたい。
長歌とは 字数合はせが第一だ 作詞と同じ作りにて 反歌に於て要約か例示か違ふ話題かを 示すことにて出す美しさ

反歌  定型は作詞と同じ美しさ旋律が無く反歌伴ふ(終)

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