千九百七十三(和語のうた) 1.終了するはずの良寛特集を再び始めた、2.飯田利行「良寛詩集譯」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
三月二十日(月)
この頁は、一月末から始めた良寛特集を締め括らうと作り始めた。ところが、良寛特集を続けることになった。図書館のインターネット手続きで、さきほど良寛の漢詩を二冊申し込んだ。
小生が良寛に進出したのは、一昨年の五月だった。当時の文章を読み返すと「昨年の八月に歌へ本格進出してから、良寛の思想、人生、歌について調べたい気持ちがずっと続いた。」とある。
良寛のことに興味を持ったのは八年前だ。当時の文章には「寺泊港から駅まで歩く途中に、良寛記念館といふ道路標識があつた。この辺りは良寛所縁の地でもある。いつか良寛巡りもしようと思つた。上杉謙信と良寛は調べてホームページで取り上げたいものだ。」とある。
草枕高田新潟宿二つ泊まりて 行きた寺泊 たまたま出会ふ道しるべ 心の向きを大きく変へる

(反歌) 八つ年も前の出会ひが今続く始めてからは二た年が経つ

三月二十一日(火)
一月末から始めた良寛特集を締め括らうとしても、既に締めくくる内容は書いてきた。今は鑑真、聖徳太子、古今和歌集、和歌全般の本を、それぞれ一冊づつ図書館から借りてあるが、どうもこれらの本は小生と波長が違ふ。
借りた本の種類で明らかなやうに、この特集が良寛を続けるのか、それとも歌に戻るかは、未定だった。昨日良寛の漢詩を二冊申し込んだ時点で、続けることが確実になった。
良寛を調べる歌を詠むこれ等二つの柱 作るふみ生きる涯てまで楽しむと根も二つにて 組は四つに

(反歌) 世に生きるあいだの趣き味はふは役に立つもの楽しきものを

三月二十二日(水)
リンクのある特集が連続すると、前頁や次頁への案内が複雑になる。それを避ける為に、「良寛の出家、漢詩、その他の人たちを含む和歌論」の間に別の頁を入れて来た(兵器を外国から購入してはいけない運賃値上げ前に、JRと東横線に乗った生協)。そして今回は良寛の番だと締め括りを作り始めたが、上記の事情になった。
そして、今は和歌論が途切れた。古今や和歌全般の本が、小生に合はなかった為でもあるが。古今の本は、子規の批判に反論して、虫や鳥が鳴くことの裏に、作者の泣く心があり江戸時代まではそれが分かって鑑賞したのに、明治以降しなくなった、と云ふ。しかし古今は、さう云ふ歌ばかりを集めた集ではない。最初のほうの歌を読んだだけでもそれは分かる。
江戸時代までは、本を書くことは大変な労力だった。そしてその本が広まることはほとんど無かった。明治以降、歌集や歌雑誌の出版が容易になった。古今集が地盤沈下したのは、競争原理が働かない中で残存した事情がある。

三月二十三日(木)
早速借りた本は、飯田利行「良寛詩集譯」だった。良寛詩の訳注は飯田さんが最も適切だ。一の一章「慨世警語 世をなげくきびしい言葉」では
天台で説く五時八教(中略)も
類まれなる流暢さの説きかただ。

飯田利行「良寛詩集譯」でも取り上げたが、そのときは悪例の提示とは云へ珍しいとするものだった。今回取り上げたのは、日本の天台宗は末寺が少ない。比叡山で聴いたとも考へられるが、比叡山なら明記するだらう。渡航説なら説明できる。
一の二章「克己策進 己に強くあてるむち」では
瓶を携へて 本師を辞し
特々として 郷州を出づ。

解説に
良寛にとって本師は国仙和尚とみるべきだが、ここでは出家の師、光照寺の玄乗破了和尚のことであろう。

飯田さんが渡航説を採用する以前の本なので、このやうに解説する。しかしさうなると、四年差問題が出てくる。光照寺は出家ではないとして、多くの人たちが四年差問題を解決するが、玄乗破了和尚を本師とすると光照寺時代に出家したことになる。
本師を国仙和尚として、「郷州を出づ」は渡航したとすると解決する。幕府から追及されてもいいやうに、郷州は越後ととれる内容にはしてあるが。
今回は良寛の思想を深く掘り下げる為に漢詩を再読し始めたが、たまたま未解決の渡航と四年差になってしまった。

三月二十四日(金)
三の一章「行雲流水 (以下略)」では
先ず迦葉尊者が 受けて以来

曹洞宗や臨済宗では、釈尊の仏道が迦葉に伝へられ、二十八代目の達磨に至ったとする。法華経は三乗を否定(または一乗に誘導)するから、迦葉たちを否定することになる。この関係を良寛はどう解釈したのだらうか。その次の詩でも
迦葉の跡に従事して

とある。
三の二章「花紅柳緑 あるがままの まことのすがた」では、紹介しようと思った内容が飯田利行「良寛詩集譯」で既に取り上げてゐた。
四の二章「一鉢隨縁 はてなく修行のえにしが結ばれて」では、訳注を挙げると(書き下し文は難しいので)
八巻の法華経全文を 礼盤の上で
ありがたく誦んでいればよいのだ。

先ほど書いた、迦葉と法華経の矛盾をどう解消するかについて、良寛の詩があった。当時はすべての経典が釈尊の直説と信じられた時代なので、坐禅をしつつ法華経も誦む。

三月二十五日(土)
五の一章「時空観照 現実を条件なしに受用する相(すがた)」では、また訳注を紹介すると
なあ 仏道の修行者よ お伺いするがな
どうしてそのように真のみを求めるのか。
おん身らが 「真」を求めようとする心
その心が 果たして 嘘なのか真なのか。

これは小生が大いに感心し、同感の詩だ。
同じく真と妄がある詩の、その部分ではなく少し前の
愚かものは その言葉に囚われて
尊い経文にまで優劣親疎の判別にせわしい

優劣親疎の判別にせわしいのは天台宗だ。だから良寛は信仰を天台宗にまで広げてはゐないことが分かる。
幾つか先の詩で
ひとり蓬窗の下に坐し
兀々として 静かに尋思す。

良寛がいつまでも禅宗でゐたことに安堵する。それは、法華賛の詩があるものの天台宗ではない。天台宗に属さず天台信仰だと怠惰になる虞がある。しかし、さうではなかった。
昨日は 今日と異なり
けさは今朝で あすの朝ではない。

無常とは、周囲がまったく変はるので自身やその考へも変はることだと判る。そのことを云はない無常は、現状に不満な人のはけ口や、本来何も無いとする虚無思想になってしまふからだ。
有願居士を訪ふ

の解説に、出家し加賀で師事し万能寺に住し、田面庵に引退したとある。出家者が居士なのはなぜだらうか。
八の一章「頌徳題讃 なき人の 徳をたたえしるす」では
仏法が西方印度より中国に東漸
経文が中国じゅうにゆきわたる。
思うに単に経典の字句の釈義や
科段を立てるだけのしごとなら
代々 その様な人も出ていたが
そこへやってきた吾が大師(だるま)とは
そも いったい どんな人物か

インドから中国へは、戒律、禅定、経典の三つが伝はったと思ってきたが、違ふのだらうかと書き下し文を見ると、小生の考へとだいたい同じだ。ここは飯田さんの禅宗に適応し過ぎかな。(終)

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