八百二十七 1.真田丸を1.8回視聴、2.高田城跡と春日山城跡訪問記、3.僧X親鸞兩聖人の上陸地を訪問

平成二十八年丙申
四月三日(日)
昨日は私一人で家にゐたので、午後1時からの「真田丸」再放送を久しぶりに観た。幸村が人質として春日山城に送られる。上杉景勝は領民とも会ふ名君だが、実際はいい格好をするだけで、問題解決できない殿様で、たまたま城下町に幸村と出掛けて名裁きをする。そんな流れだつた。
今日から旅行に出掛け、まづ高田(上越市)に宿泊するから、偶然があるものだと思つた。
たまに観る分には面白い。しかし毎回観たら飽きる。大河ドラマが水戸黄門化した。インターネットで調べると、上杉景勝は豊臣政権の五大老の一人だから問題解決できない殿様のはずはない。

四月四日(月) 高田城百万人観桜会
昨夜は高田城百万人観桜会を観に行つた。ぼんぼりで飾られた夜道に桜が咲き、白熱電球(白熱電球型LED)で明るい空間に桜が見え、サーチライトで照らされた空間に桜が輝いた。見どころはさくらロードと呼ばれる馬蹄形の道、明るく輝く木橋、光に輝く高田城三重楼だ。
日本三大夜桜といふのも頷ける。

四月五日(火) 真田丸の二回目
観桜会を観たあとホテルに戻つて、土曜に再開した「真田丸」二回目を観た。徳川軍が攻めて来るなか、幸村は上杉景勝から一時戻ることを許される。春日山から信濃に戻る。父昌幸が計略を立てる。幸村は徳川軍に向かひ家紋の旗を振つて馬鹿にして敵を誘ひ込むが、そんなことはあり得ない。鉄砲か矢で攻撃されたら終りだ。その次に幸村の妻が竹やりか何かを持つて登場するが、馬鹿馬鹿しいからテレビを切つた。前回と今回合はせ1.8回観たところで終了した。
テレビでは幸村を信繁とするが、私がこの名を用ゐないのは単に覚へられないだけだ。長年、幸村で親しまれたのだから勝手に名前を変へてはいけない。ここにNHKの傲慢さが表れる。

四月十一日(月) 高田の街並みと春日山城
高田では着いた日の日没前に寺町を、日没後に高田城跡に行つた。県道198号沿いのドラッグ店で購入した98円くらいの新潟米100%のパック酒が吟醸酒のような風味で美味しかつた。翌日は雨だつたが、再び高田城跡に行つた。戦没者の慰霊碑があつた。多くの住民の集まる夜桜と慰霊碑。郷土意識の集まつたものが県民意識となり、それの集まつたものが国民意識とならなくてはいけないと強く感じた。首都圏では郷土意識がないから国民意識も無い、或いは郷土意識のないまま国民意識だけ持たうとするから拝米反アジアになつてしまふ。今後は地方の時代だ、そして地方の弱体化を進める消費税増税を元に戻し、大都市シロアリ政党の撲滅こそ急務だと強く感じた。
鉄道で春日山まで行つた。ここからが大変だつた。重い荷物を持つたまま、春日山城のふもとの林泉寺に行つた。受付で荷物を預かつてくれた。上杉謙信の資料が宝物館に多数転じされてゐた。謙信は曹洞宗として出家したことを始めて知つた。荷物無しで春日山城の頂上まで行つてこようかと思つたが、受付が交代して荷物が不明になるといけないから、そのままお寺を後にバス通りを歩き、本願寺国府別院と、信越線開通で場所が離れた親鸞聖人所縁の井戸に参拝した。
更に歩き五智国分寺とその裏手の親鸞聖人上陸の地を参拝した。ここで始めてバスが来て直江津駅に着いた。乗客は七人くらいゐるのに運賃は420円くらいでずいぶん高いと思つた。鉄道だと高田から直江津まで200円、高田から春日山まで190円だからだ。

四月十二日(火) 柏崎と番神海岸
往路も復路も柏崎で昼食を食べた。僧X聖人上陸の地、番神海岸まで3Km。バスは待ち時間が長いので歩くことにした。重い荷物を持ちもう一方の手に傘を持つ。重いから手が疲れてくると50mくらいで左右の手を持ち変へるのが大変だつた。しかし無事、番神海岸まで往復できた。番神堂といふ堂があるが場所が判らないし、駅までもどらなくてはいけないからその余力も無かつた。後世に作られたもので僧X聖人とは無縁だと自分に云ひ聞かせた。
海岸だつて当時と今では堆積や侵食で位置が異なるだらう。しかし上陸の地に行く。ここに意義がある。

四月十二日(火)そのニ 二度目の訪問
青春18切符が二枚余つた。有効期限は10日までだから、今度の土曜と日曜でぎりぎりとなる。二枚とも日帰りで、東金線経由銚子と内房線外房線一周を計画した。妻が一泊すればと云ふので前日に宿を探した。直前に探しても安いところが無い。長野、松本、諏訪、名古屋、滋賀、大阪、会津、福島と探したが無かつた。そして最後に見つけたのが新潟だつた。
今回は寺泊に行つた。駅から6Kmだがバスは待ち時間が長い。次の電車まで2時間20分だから時速6Kmで歩けば、20分参拝ができる。といふことで寺泊に行つた。佐渡に出発するまで待つときに寺泊御書を書かれたときに使用した井戸を参拝した。少し歩けば魚のアメ横と呼ばれる商店街があるさうだ。今回は荷物が軽いから余裕はある。しかし時間は少ないから省略することにした。インターネットで街の様子を見ればよいだらう。さう考へた。

四月十三日(水) 寺泊
寺泊ではまづ佐渡汽船の乗り場を見た。休航と書かれ建物も閉鎖してあつた。いつ出航するのだらうと、家に帰つてからインターネットで調べると、今の時季は毎日欠航。六月になると毎日一往復ある。次に僧X聖人所縁の井戸を観た。木造のお堂の中なので少ししか見へなかつた。
寺泊駅から寺泊港までなぜこんな離れてゐるのかとインターネットで調べると、かつては越後交通長岡線がJR魚沼線来迎寺駅からJR越後線寺泊駅(当時は大河津駅)を経由して寺泊まで走つた。赤字だつたが昭和26年田中角栄が社長に就任し電化した。昭和50年旅客営業が廃止、平成7年に貨物も廃止になつた。

四月十六日(土) 越後の本成寺
翌日はコンビニで買つた朝食を済ませ6時5分発の電車で帰路に付いた。途中、越後の本成寺に寄る計画を立てた。うつかり乗車の前に駅で時刻表を調べるのを忘れた。長岡から水上への直通が1日に5本しかない。五時頃駅に行つたときはみどりの窓口が閉まつていて時刻表が見れなかつた。新潟発の時刻表は貼つてあるが長岡から先が判らない。
そのことが頭にあつたため、三条で降りるべきところ間違へて東三条で降りた。駅員に地図を見ながら道順を教へて頂いた。1時間後の電車に乗ると水上に早く到着できる。普通なら本成寺を諦める。或いは次の電車で三条に行く。東三条から本成寺に行つて三条駅に戻ると6Km。歩いて1時間。途中走れば20分は捻出できる。といふことで本成寺に無事参拝ができた。本堂、本堂裏の墓地、他宝塔、鬼子母神、二つの直角に配置された塔頭の並び(黒門内と三門内)を外からではあるが拝観した。
法華宗総本山と刻まれた石柱が印象に残つた。法華宗は真門流、本門流、陣門流がある。陣門流は末寺が300。京都の要法寺(末寺数100か)と比べると伽藍がある程度立派だから、末寺数に比例してゐると納得した。

四月十八日(月) 途中下車
帰路はあちこち寄ることを目的とした。まづは渋川で下車した。私が小学生のころ、高崎線の電車といふと新前橋行き、渋川行き、水上行きがあつた。水上は20年くらい前だらうか途中下車したことがある。だから今回は渋川で降りた。丁度お昼時だつたので、スーパーで昼食を買つて駅前のバス乗り場のベンチで食べるだけに終つた。
次に群馬総社で降りた。20分後に吾妻線からの電車が来るからそれまで群馬総社といふ神社があるのか見ようといふ次第だ。実際は総社といふのは地名で神社は無かつた。駅前が駅前らしからぬ普通の道路なのが良かつた。
後から来た電車に乗り終点の高崎で降りた。今から40年くらい前に、高崎に来て駅を出てすぐのところにスーパーがあり、その上層階にゲームセンターがあつた。私はゲームをやらないが、当時のスーパーは上層階にゲームセンターや食堂があつた。あのスーパーはあるだらうかと行つてみたが既に無かつた。高島屋があつたから寄つてみたが無かつた。駅ビルにも寄つたが無かつた。
次に熊谷で降りた。ここは30年以上前に、会社の車を運転し仕事でよく来た。道の中央に水量の多い川が流れてゐた。駅前を歩き星川が見えて来た。水量が少なく遊歩道化してゐる。説明版を読むと、農業用水だつたが水量が減少したため、用水は地下に管を敷設し、地上は遊歩道になつた。

四月二十日(水) 寺泊港の帰路に思つたこと
寺泊港から駅まで歩く途中に、良寛記念館といふ道路標識があつた。この辺りは良寛所縁の地でもある。いつか良寛巡りもしようと思つた。上杉謙信と良寛は調べてホームページで取り上げたいものだ。
良寛と対比する人物に一休がゐる。一休はあまり好きではない。それは「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」といふ短歌だ。仏教徒なら「めでたくもありめでたくもあり」と云はなくてはいけない。しかし一休は悪くはなく、引用する人たちが悪いのではないのか。丁度丸山真男は悪くはないのに、終戦直後に書いた内容をありがたがる連中が悪いのと同じだ。そんなことを歩きながら考へた。

四月二十一日(木) 旅行の帰路に思つたこと
一回目の旅行のときに思つた。親鸞と僧Xは後継者が悪かつたのではないかと。親鸞滅後、廟所は後継争ひを繰り返す。徳川家康によつて分割させられた東西の本願寺は統一できない。これなんか東西が私欲を捨てれば統一できるのだが。とはいへ現在の浄土真宗はこれまで長く保ち続いたといふ経過に注目すれば、尊敬に値する。
僧Xの場合は、後に残された弟子たちが教義で争ひ過ぎた。更に重要なことは日本中はおろか中国、インドにまで広まるはずのX経が日本国内にさへ広まらなかつた。
インドでは釈尊は神々の一人としてヒンズー教でまつられるのと同じように、親鸞と僧Xは日本の仏教全体の偉人として扱ふのがよいのかも知れない。親鸞は法然上人の弟子として、僧Xは天台宗の改革者として。(完)


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