千九百五十(うた) 飯田利行「良寛詩集譯」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
二月二十三日(木)
飯田利行さんの「良寛詩集譯」(昭和四十四年)は前にも読んだが、再度読み始めた。この本が、良寛詩の訳文として一番よいやうに思ふ。訳文に入る前の「良寛和尚略伝」では
天童山の方丈大光明蔵において如浄禅師の普説が行われた。如浄禅師の会下に在って修行中の道元禅師も袈裟をつけて参列し、(中略)感涙にむせんでこれを『正法眼蔵』諸法実相巻に綴っている。

道元禅師の渡航が、どれだけ有意義だったかが分かる。
飯田氏は 曹洞宗の僧にして 漢文特に押韻や故事熟語及び成語法 更に宋代俗語にも 詳しく良寛漢詩への訳解説に最適任者

(反歌) 良寛の漢詩の訳の最適者その欠点は適し過ぎるか
一の一章「慨世警語 世をなげくきびしい言葉」では
わしはこれ インドは釈尊の
教えを信じたてまつる老僧だ

漢詩の書き下し文は
我れは是れ 西天の老僧伽

昭和四十四年の出版なので良寛渡航説が出る前だが、良寛が渡航した印象を小生は受けた。
天台で説く五時八教(中略)も
類まれなる流暢さの説きかただ。

書き下し文は
五時と八教と
説きかた はなはだ比なし。

良寛が天台の五時八教を引用するとは、悪例の提示とは云へ珍しいと思った。天台宗と禅宗は接点が無いと思ふので、さう感じた。
一の二章「克己策進 己に強くあてるむち」では
朝には さびしい峯の頂上をゆき 暮れには
水ぶかい大海原を わたること いくたびか

書き下し文は
朝に孤峰の頂を極め
暮に玄海の流れを截つ

これも昭和四十四年だから渡航に言及はされてゐないが、本州から九州や四国に渡るときに「水ぶかい大海原」なんて無い。小生が渡航説に賛成なのは、かう云ふことの積み重ねだ。飯田さんも後に渡航説となる。
仏陀の説かれた十二部の経文さんは
(中略)
何れが真の仏説に近いか遠いかなどと
空しい弁別読みなどしてはならぬぞよ。

この説に賛成なので、悪例の提示とは云へ五時八教に言及したことが蘇る。

二月二十四日(金)
二の一章「参禅弁道 坐禅をすることは 正しい仏道を行ずること」に入る前に、章題の日本語部分について、坐禅は正しい仏道の主要部ではあるが、正しい仏道を行ずることの全部ではない。だから
そは正身端坐せよということだ

の書き下し文が
如実に 自心を知れと。

だったりする。良寛の云はんとすることを理解するにはこの本が最適だが、他の宗派との関係の調査など別の目的でこの本を読むときは、書き下し文を念のため読むと完璧になる。
書き下し文の
ただ道(い)ふ歌を書け また詩を書けと

の訳が
たゞ言うやれ歌を書け やれ詩を書けのと
わしが 生涯をかけての仕事は
こんな文墨の道ではなかったはずであるが。

この解釈に賛成。ここが伊丹末雄さんが「良寛 寂寥の人」でうぬぼれと解釈したこととの相違だ。
二の二章「愛宗護法 (以下略)」については、良寛さんが渡航したのかどうかに有益だが、この書籍の発行時に飯田さんは渡航説に出会っておらず、従ってご自身も渡航しなかった前提で訳されてゐる。
三の一章「行雲流水 (以下略)」では
谷川に沿うて一歩一歩漸進しつつ
水源(さとり)を求める
(中略)
つまり流れの途次にこそ 源流があるのじゃ

この良寛さんの主張には大賛成。日本では、悟った、仏になった、釈迦になったと慢心を起こす人が多いので、この詩は重要だ。

二月二十五日(土)
三の二章「花紅柳緑 あるがままの まことのすがた」では
この栄蔵が栄蔵ならぬ偉い人間になろうと
思うたことの 誤りが分った。

これの書き下し文は
ただ是れ旧時の 栄蔵子。

この漢詩は、良寛の行脚は失敗だったと否定的に解釈する人が多い中で、飯田さんは曹洞宗らしく訳された。この訳に全面賛成である。
昼は ひねもす不立文字の禅籍を読み耽り
夜は 夜もすがら修証不二の坐禅に親しむ

書き下し文は
竟日 無字の経
終夜 不修の禅

で、良寛が僧を辞めたと主張したい人は、経を読まず禅をやらないと解釈する。飯田さんはよい解釈をされ、曹洞宗の碩学ではないとかう云ふ訳を出せない。敬意を表したい。
同じ詩の後方で
これはまた 法の悟りをうるということが
何か特殊な心情に達することを意味しない

書き下し文は
さらに法の情に当るなし

曹洞宗でも南伝仏道の瞑想法を実行する日本人でも、悟りを得て特殊な心境になったと勘違ひする人がゐるので、この訳は重要だ。
悟りには 固(もと)より段階というものがない

書き下し文も読めば解るので省略するが、これも前の詩と同じことを云ふ。 四の一章「一顒明珠 宇宙いっぱいは かげりなき珠だ」では
(前略)達磨も慧能も 今や
我が身中に 脈うっていると知れた。

書き下し文は
四七 二三 脚下に在り。

曹洞宗の碩学の訳ではないと、とんでもない解釈になってしまふ。飯田さんに深く感謝。
仏とは 自己が 自己になり切ることじゃ
菩提(さとり)の道も何かをなし加えてゆくのではない
有為(まよい)の衣を脱(ぬ)ぎ無為(さとり)となる事をいうのじゃ。

書き下し文は
仏はこれ 自心の作
道もまた有為(ウヰ)にあらず。

飯田さんの訳がなければ、とんでもない解釈になってしまふ。
四の二章「一鉢隨縁 はてなく修行のえにしが結ばれて」は、表現の美しさを味はふ漢詩が連続する。教義性が薄いので、飯田さんは手を抜かれたのかな。ここは、書き下し文を味はふのがよい。

二月二十六日(日)
五の一章「時空観照 現実を条件なしに受用する相(すがた)」では、漢詩の美しさを鑑賞するのがよいと小生は思ふものにも、飯田さんは禅の立場から訳されるので、書き下し文のみで鑑賞し、訳は参考資料とするのがよい。
それを特に感じるのが
犬の肉を売るくせに
公然とごまかして(中略)
かくも鼻もちならぬ偽物を(中略)聴聞しようとしている善男善女らは
なんとゆったりとして 安らかな顔の色を
しておいでであることか 
全く分りかねる。
書き下し文は
狗肉を割かんと欲して
当に陽(いつは)りて羊頭を掛くるに似たり。
借問す 臭を逐ふ者
優々として 卒(ここ)に休々たるを。

この漢詩は、良寛と仲がよい有願について作ったものだ。書き下し文なら、有願は良寛と同じ曹洞宗の僧であり、親しく笑って済むことだ。しかしこの訳文だと、特に赤字の部分で不仲になっただらう。赤字を削除すれば大丈夫だ。飯田さんの欠点は、曹洞宗のまじめさに適し過ぎる。
五の二章「藝林閑語 たくみの世界を静かに語る」では
あゝほんに衲(わし)は無力な人間だった
これら山嶺雄大のたゞ中に立ってひたすら
詩想に想いを託すだけで能のない男なのだ。

これの書き下し文は
あゝ余(わ)れ 胡(なん)為(す)る者ぞ
これに対して 一に長吟するのみ。

訳を
「あゝ衲(わし)は山嶺雄大のたゞ中に立って
詩想に想いを託すのみ。」
とすればよかった。

二月二十七日(月)
六の一章「遍界寂寥 飛華落葉 喜怒哀楽も寂の相(すがた)」では、二つの詩が老いの寂しさを詠ったあと、二つの詩では托鉢で得られず空の鉢を詠ふ。
良寛は若いころを除いて人気があったとばかり思ってゐたので、これは以外だった。たまたま遅かったのか、不作の年だったのか、良寛の人に媚びない性格が例へば書を望まれて拒んだので悪い噂が立ったのか。いろいろ考へてみた。飯田さんは歴史学者ではないので、ぜひ歴史学者、民俗学者が解明してほしい。
このあと、米が少し足りないので冬ごもりを越せるか、と云ふ詩が一つあるだけであとの三十余は違ふ内容なので、たまたまさう云ふ時もあっただけではないだらうか。そしてその場合でも、漢詩自体は
日暮 荒村の道
また空盂(う)を掲げて帰る。

と美しい。飯田さんは、仏道に関する詩の解釈は素晴らしい(その場合でも、曹洞宗に特化し過ぎるので書き下し文での読み直しは必要だが)。しかし美しさを味はう漢詩では、訳文が醜い。
六の二章「天地慟哭 この世もあらぬ悲しさに泣く」では
仏祖から承けついだ正伝の法脈が
だんだんに断絶しようとしている

書き下し文は
仏祖の法燈 漸くまさに滅せんとす

それなら良寛さんが、と期待するが年を取ったのか出世コースから外れたのか。このあと、去年の秋に大風で木が倒れ家が吹き飛ばされコメの値段が上がった詩がある。空の鉢は、その影響だらう。
仏道の話は、前の章から少なくなり、この章でほぼ終了した。小生の紹介もここで終了としたい。(終)

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