千九百七十一(うた) 安藤更正「人物叢書 鑑真」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
三月十八日(土)
良寛が渡航したかどうかを調べる為、これまでに二冊を読んだが、関連情報として安藤更正「人物叢書 鑑真」を読んだ。前半(四十二頁)と後半(百七十三頁から二百三十九頁)だけで、第一回渡航失敗から第六回成功までは読まなかった。全体の半分以下だが、鑑真の痛々しい姿は目にしたくなかった。あと、良寛の調査に関係のない為でもあった。
これ以後は、三師七証による正式な受戒を経たものでなければ、政府公認の僧となることができなくなったのである。

ところが
旧慣に泥んだ大僧たちの甘んじて伏するところではない。

興福寺で対決し、唐僧側が勝った。しかし伏さない流れが、後に比叡山の比丘戒無視に繋がったのかと云ふ思ひがある。
孝謙・仁正崩じ、仲麻呂敗死した後、(中略)鑑真らは(中略)後援者を失い、殊に大和上の死後は、道鏡らの勢力に押されて、大和上の記憶は世間から薄れて行った。

大和上とは鑑真のこと、仲麻呂とは藤原仲麻呂(改称して恵美押勝)である。
鑑真は天台関係の信仰を持っていたために、(中略)天台大師の著書を多く持って来て紹介した。(中略)後に最澄はこれらの書を見て天台宗に眼を覚まし(以下略)

ここまでは、前回読んだ二冊と同じ流れである。ところが
鑑真は密教にも深い関心があった。唐招提寺の金堂は(中略)良寛の死後、宝亀年間ごろに建てられたものだが(中略)中央に蘆舎那仏を安置し、その東西に、東方薬師如来・西方阿弥陀如来の補処の菩薩たる千手観音を置き、四隅に四天王を置き、その空隙を梵天帝釈で埋ずめる。これは他の寺の金堂に見るような浄土変相の立体化ではなくして、曼荼羅的配列である。西方が阿弥陀でなくして千手観音であることも密教的だということができよう。

千手観音はヒンドゥー教の影響で観音菩薩が変化したもので、そのことを説いた千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經の中の
大悲心陀羅尼』は現在でも中国や日本の天台宗、禅宗寺院で読誦されている。
(Wikipedia)
密教でも千手観音は用ゐられるが、千手観音があるからと言って密教と関係があるとは云へない。仏像がたくさんあるのは曼荼羅的ではあるが、密教の曼荼羅とは異なるから、影響は受けても関心があるとは云へない。似た例に、古今や新古今で使はれる語がある歌が、古今や新古今の影響は受けても、古今調や新古今調とは云へないのと同じだ。
と云ふことで、鑑真と密教は関係が無ささうだ。影響はあったとしても。
大和上寂して七年、孝謙天皇崩じ、道鏡失脚し、(中略)法王政治の下に雄伏させられていた勢力は社会の各方面に復活して来る。

日本では鑑真一行来る前の仏道に歴史ある為に 六度目にして来日の努力も一時無駄となる 道鏡失脚その後は復活するも 最澄が戒を無視して 後の世に僧兵による乱暴で堕落を重ね焼き討ちとなる

(反歌) 鑑真の評価関心人気度を更に高めて良寛並みに
(反歌) 鑑真は一時人気が高まるもその後下火が今日まで続く(終)

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