千九百七十七(うた) 東郷豊治「良寛全集」上巻
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
三月二十六日(日)午前
東郷豊治「良寛全集」上巻を読み始めた。一年半前にも読んだが、今回はどれだけ相違が出るか。
まづは1唱導詩
仏法が印度から志那に渡って、白馬寺がはじめて基礎として建てられた。やがて達磨大師がはるばる中国に渡来したので、にわかに諸法がこれに帰依するようになった。

仏道が中国に広まってから達磨が来たと、今まで思ってゐたが、達磨が来てから仏道が広まった。これなら兼学の事情が分かる。尤も「諸法」が仏道の各宗だと違ふが、仏道以外と解した。
62峨眉山下の橋で
流れ寄る 日本椎谷の浜。

江戸時代は、藩意識や国(越後など)はあっても、日本意識は無かった。日本意識が出てくるのは黒船来航だ。良寛にあるのは、やはり渡航したのかと思ふ。
153の詩では
初めて仏法が中国に渡来し、経文が国内にひろがったのである。(中略)しかし達磨大師ははるばる中国に渡るや、(中略)彼が渡梁した普通年代はなんと仏法が盛大だったろう(以下略)

これだと1唱導詩とは異なり、既に広まったところへ達磨が来たことになる。
全体の四割読んだところで、一旦中断した。東郷さんは、従来の諸本が真偽不明のものを載せるため、それを正す目的があった。東郷さんは漢文や国文学の専門では無いが、鈴木文台の孫で京大名誉教授、漢文の専門家、鈴木釣軒さんが校閲をした。
漢詩の訳注としては、最高の部類に入る。ところが、曹洞宗とは無縁のため、読んでも頭を素通りする。すべての漢詩が仏道に関係する訳ではないが、書き下し文と異なり訳注は漢詩の名調子を除いてしまふ。
飯田さんの訳注で、曹洞宗の立場での漢詩を習った後に書き下し文を読み、飯田さんの曹洞宗に適合し過ぎる分を補正するのがよいやうだ。これは我々一般人の場合で、曹洞宗の関係者は飯田さんの訳注をそのまま学べばよい。
鈴木家は代々儒学の家にして 文台の孫豹軒氏京大名誉教授にて 良寛の詩に最適な人が校閲優れた書籍

(反歌) 東郷氏心理学者も文台の孫が校閲最高の本

三月二十六日(日)午後
237仙桂和尚では、参禅せず読経せず野菜を作ることを誉める。野菜を作らず参禅や読経もしなかったのではないから、四国で良寛に会ったと云ふ男の、一日中何もしなかったとの記述が如何にでたらめかが分かる。
238自画の髑髏の賛では
髑髏 忽然として起き来り
我が為に 歌い 且(かつ) 舞う。
(中略)
月は落つ 長安半夜の鐘。

「長安半夜の鐘」に渡航を連想してしまふ。解説に
別に『題九相図』(中略)を良寛作となすものもいるが、書風が全く異なり、用字にも共通したものがなく、全く別人の作である。

これは何とも云へない。
一部では(中略)有願の稿本であろうと言われている。

252の
高野の道中 衣を買わんとして 直銭なし
(中略)
総て風光の此の身を誤るが為めなり。

の最後の行を
こんなふうに身をあやまったのも、人事よりは専ら自然に心をひかれているからだ。

これは好い訳である。この部分を否定的に訳す人が多い。
293の
悲しいかな 浮世名利の客
生涯 区々として 風塵に走る

これは名文だ。
325の
六十有余多病僧

訳は
六十余歳にもなった病気持ちの僧が

これは適切な訳だ。ここを、六十余年間多病だったと訳したものを見たことがある。良寛が出家したのは二十歳以上だから、六十余年間多病の僧では、意味が合はないのだが。
東郷氏福井敦賀の出身が 高田師範で十年を教へたことが縁となり 良寛研究数十年 その蓄積が多くの書籍

(反歌) 東郷氏良寛全集名著にて日本の宝世界に誇る(終)

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