二千二百(和語のうた)最新の歌論(和語、役立つか美しいか、異なる型を)
新春前癸卯(西洋未開人歴2024)年
一月一日(月)
赤彦の歌に触発されて、和語優勢の区分を新設してみた。2157から2183までは、現代の複雑な話題で漢語を使はざるを得ない場合を除き、和語優勢を続けた。2184から2191まで普通の歌に戻ったのは、和語優勢に疲れた面もあった。2192で和語の歌になったのは、その逆で和語のみの歌を作りたくなった。
普通の歌のほうが、和語優勢の歌より、現代社会での高度な内容を詠ふことができる。更に疲れた時など、省力化して詠ふことができる。しかし内容により、和語優勢の歌で詠めることも多い。
結論としては、和語優勢を中心に、内容によるか疲れた時は普通の歌、和語のみの歌を作りたくなったときは和語の歌と、三つを使ひ分けるのがよい。
秋津洲大和言葉に限るのか または大和でほとんどを または大和を気にせずに 歌には三つ作り方あり

反歌  大和歌大和言葉がよく似合ふだが難しき世に歌は連れ
反歌  歌は世に世は歌に連れ難しき世を詠ふ歌大和難し

一月二日(火)
実効と美しさについて「英語教育は、NHK言語障害集団のためにあるのではない」に書いた内容が適切なので、引用すると
「物は役に立つから美しい。建物の柱や屋根は、役に立つから美しいのであって、木が一本余ったから付けて置かうといふものは美しくない。装飾は機能では役立たないやうに見えても、美しさで役立つ。」
文章に歌を組み込むと、それだけで役立つ。もう一つ、美しい歌は装飾で役立つ。歌の本質はこの二つだ。
役立つか美しいかが 歌のほかすべての文(ふみ)に当てはまる 歌は文にて作られるにて

反歌  もろこしの詩(うた)と大和の歌と文大和はすべてこれで賄ふ
日本は、漢詩と和歌と散文。この三つですべて賄へる。短歌は詩でなくてはいけないとする説は、西洋から詩の概念が入ったためだ。

一月三日(水)
その逆に役立たないか美しくないのが、まづ破調と話し言葉で、これまでに指摘してきた。今回追加するのは、同じ型の歌だ。最近の歌は微妙な心情を詠ったものが多く、俳諧と川柳の中間だと前に述べたことがあった。微妙な心情を詠ふことも悪くはない。しかしそればかりではいけない。
いろいろな事を詠むから味がある 物語でも川上に桃が現れ流れるを 四つ五つと繰り返す 話す人無し読む人も無し

反歌  お爺さん竹の中からかぐや姫三人四人現れる無し
古今集以降の勅撰集に評判が悪いとすれば、同じ型を集めたためだ。(終)

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