二千百八十(和語のうた、普通のうた)アララギ派所縁の富士見公園
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十二月三日(日)
左千夫が公園を提案し、町民の努力で公園が作られた。そこには、左千夫、赤彦、茂吉そのほかの歌碑が点在する。新宿を七時半に出発するあづさ三号で富士見へは九時四十二分に到着した。車内販売があるので感激し、日本酒を訊くと真澄三百円なのでこれを飲んだ。
富士見駅から予め調べた富士見公園へ行った。入口の石碑は昭和四十二年。まだ日本は偏向しなかった。

 
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正しく云へば、軍部による偏向を正した状態だった。その後、昭和六十年前後に米ソ冷戦が崩れるころから、拝米の偏向がひどくなり、そのため萬葉集を尊重した子規一門のなかで、左千夫に責任を押し付けるやうになった。この石碑は、その偏向の前である。
秋津洲戦に負けていそ年を 過ぎよろづ葉を悪く見て 左千夫の所為(せゐ)に仕立て上げ 逃げ出す人と継ぎ逃げる人

万葉に一番近いのが赤彦、次いで左千夫、その次が茂吉と云ふのが、(土屋)文明の意見だった。しかし戦後も年月が経つと、一番近いのが左千夫、次いで赤彦、次いで茂吉と変はった。文明は左千夫や赤彦に公私ともに世話になったので最後まで悪くは云はなかったが、文芸界の影響を受けて変化した。文明自身も、萬葉集を他の歌集と同一視するやうになった。
静かにて冷たき風はほぼ吹かず 一人もゐない公の富士見の園に 立ち並ぶ左千夫赤彦茂吉の歌が

反歌  みすずかる二つとは無き富士を見る富士見左千夫が導きた園

  

かなり厚着で行ったが、丁度よかった。あづさの車内は暑すぎて二枚脱ぎ、外では完全装備になった。人のゐない園内と、静かに立つ石碑と、空気の寒さが、不思議と調和した。
二時間後の普通電車で茅野へ行く予定だったが、一時間後の電車に充分間に合った。観光案内所に寄ったところ、不在だった。待合室兼そば屋窓口をのぞいたあと、ホームで待機した。
茅野は行く場所がある訳ではなく、街中を散策しようと思った。富士見に停車する特急が、ほとんど無いこともあった。まづ駅直結の商店ビルでカップ酒を買った。ここのお店はお薦めだ。前回も寄ったことを思ひ出した。陸橋を渡り、南側の商店ビル兼市役所施設兼アルピコバス案内所を見たあと、北側駅前通りへ行った。駅前広場のC12を見た。機関車後方右側の操車掛の握り棒が内側に寄り過ぎかなと思ったが、まったく影響ない。
犬射原社は社が小型石製で、背後の御柱とともに珍しいものだ。

   

駅繋ぐ酒も売る店気に入りて 橋を南にビルがあり 橋を北には広場あり小さき機関車 その先に小さき社昔の祠
反歌  富士見には一人みどりの窓口に茅野既に無く話す券売
小さな神社の先を歩くと、目利きの銀次がある。ここで昼食を食べた。八百円ではなく旅行中だからもっとよいものを食べればよかった。と云ふのは、刺身がご飯に乗るが野菜不足だ。帰りの特急を一時間早く変更した。話せる券売機が役立った。
茅野市内 旅する者が見るものは歩く近さに無きものの 落ち着く街に遠く蓼科

反歌  市役所は国内最高標高に亜寒帯にて湿潤気候
帰りの特急は、車内販売で、旨辛七味ポテトを買った。少しでも野菜分補給だ。車内放送でも善光寺門前と紹介し、ビニル包装にも表面に「根元 八幡屋礒五郎」、裏面に「創業以来280年以上続く(中略)善光寺門前で誕生した」とある。製造者が香川県仲多度郡の別会社なので、善光寺から移転したのかと思ったが、帰宅後に調べると八幡屋礒五郎は今でも善光寺にあり、OEM製造のやうだが販売元が無いことからOEM製造販売かな。
今回の旅行から、車内販売も応援するやうになった。あづさ号の車内販売は、車掌が兼務のやうだ。運転士の兼務だと危険だが、車掌ならいいや、と云ふ話ではない。(車掌と云っても、昔の乗務掛。長距離列車は、乗客専務が責任者で補助の乗務掛がゐた。後に寝台特急は車掌補と云ふ寝台の設定をする人がゐて、乗務掛とどう違ふのか調べたところ、乗務掛が車掌補と改名したやうだ。尤も乗客専務Aを車掌長、Bと乗務掛の昇格で新たに乗客専務としたので、単なる改名ではなく職名インフレを伴った。)(終)

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