二千百八十三(和語優勢のうた、和語のうた)良寛の止と観(続編)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十二月十日(日)
前に良寛の止と観を特集した。今回空海と良寛で、静の良寛だから密教は合はないと書いたので、それでは止とは合ふのかを考察したい。
良寛が密教と合はないのは事実だ。曹洞宗は、只管打坐の道元と、それに祈祷を加へ教線拡大をした瑩山を、両祖とする。良寛は、専ら道元だった。一方で曹洞宗の坐禅は止なので、静の良寛が止をしたらますます静になってしまふと云ふ疑問が出てくる。
まづ止は基本で必須だ。その上で曹洞宗は、観として(1)読経、(2)経典古文書学習、(3)作務、がある。良寛は円通寺を出た後は、一人で修業したから、曹洞宗としての観が弱い。それを書漢詩和歌で補った。小生はかう考へる。
坐るにて止める修行と 唐土のうたと大和のうたと筆観るの修行も怠らず 越後へ戻り今までと変はる事なく仏の道を
反歌
良寛に修行を止める時はなく裏無く道を外れるも無し
今回の反歌は、近藤万嘘の何もせず一日ぼんやりして狂人に見えただの、テレビドラマの良寛に裏があるだのと、出鱈目な主張があるため、それへの反論とした。
十二月十一日(月)
昨日から始めた今回の特集は、十分に考へて始めたものではない。試論である。試論が日毎にどこまで変動するかを、自分自身楽しみにしてゐる。本日は、性格の静と頭の静の違ひを考へた。良寛は、性格が静だった。しかし頭の中は静では無い。
頭が静のときは、観の修行で智慧をどんどん付ける必要がある。良寛は心が静だから、密教は合はない。しかし頭は静では無いから、観の修行はそれほど重点を置かなくてもよかった。坐禅の止を中心に、筆詩歌と経典学習の観。それが整合した。
全国良寛会の人たちも、結論を決めずに調べたり考へるとよい。良寛の実父は誰かと、良寛の行方不明期間を解決する方法。この二つは、結論を決めないほうがいい。
十二月十二日(火)
最初に結論を決めずに始めた特集は、心の静と頭の中の静は違ふと云ふことで、結論が出た。あっけなかったが、今回の特集を始めるきっかけとなった空海で、偶然が二つあった。
一つ目は、昨日仕事で行った帰りに、三学院と云ふお寺に初めて行った。四十年前に自転車で旧中仙道を走ると(当時は中仙道と書き、道路標識もさうなってゐた)、三学院入口と云ふ看板を見つけた。それ以来、四十年目で行く機会が出来た。天台宗かと思ったが、行ってみると真言宗智山派のお寺で、行脚する空海の像があった。三学とは戒定慧で、止が定、観が慧を目指し、戒はそれらの土台となる。
良寛が江戸より越後へ戻る道 中山道を十あまり三つめの宿高崎へ 分かれて三国街道で越後へ至る三十(みそ)あまり四つの宿で寺泊へと
反歌
日本橋出て二つ目が蕨宿三学保ち寺の横行く
反歌
寺泊三つ手前が地蔵堂その前と前与板長岡
二つ目は、司馬遼太郎「空海の風景」を読むと、最澄が年次得度二人分を天皇から許され、一人は止観、もう一人は密教に指定される話が載る。なるほど天台宗は、法華ではなく止観なのか。ここでも止観が出て来た。
この文は止める観るにて始まりて止める観るにて元へと帰る(終)
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