二千百五十七(和語優勢うた)赤彦全集第一巻
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月十一日(土)
赤彦全集第一巻を読み始めた。まづは「馬鈴薯の花以前」の明治二十六年で
打よする波の響に夕千鳥なく声寒し風はやの浦

など、不可はないが特長も少なく、しかし美しい。古今調と云へば古今調だが、美しいのはよいことだ。明治二十八年の
まがね路はしる車の夕けぶりおもげに見えてさみだれのふる

の「まがね路」は、旧派の影響も受ける。同じ年の
日清戦争後国民の覚悟を

との題に、国内に於ける歌の変化は戦争が原因かとも思へるが、この題の歌自体は影響しなかった。明治三十二年に教へ子の死歌と云ふ長歌と反歌六首がある。
稀に漢語が入るが、ほとんど和語だ。これがよいのかな。小生みたいに「和語の歌」と名乗った時にすべて和語にするのは、大変だ。名乗った以上さうせざるを得ないが。
明治三十五年に子規追悼の五首がある。明治三十七年に日露戦争が始まる。戦争の歌が少しあるが、和語を保ってゐる。三月に左千夫が来ると云ひながら来なかったことを残念がる歌が六首。
未だ見ぬ人にはあれど我宿のさくらの下に夢に見えつも
(中略)
信濃の比牟呂の子らは歌よむと馬醉木のぬしの顔知らず居る

次の章は、子が眼の病で、悲しみ詠んだ五首。数か月後に再び、左千夫が来ると云って来なかった時に詠んだ八首。
科野路の山辺さびしみ紅葉ちりはたや今年も君にあはぬかも(
横に小さな字で君にあはざらむ)
夜刈する須波の里田をめづらしみ君見まさんと今ぞさぶしき

その次の章は
   左千夫氏突如来る
君来じと思ひて居りし折からに君来つといふ夢見る如し
都人はろばろ来つれ故さとの紅葉かつ散りさびしき時に
なまよみの甲斐の山坂走る馬車君を乗せけり賤の女と共に

少し後方に「旅順陥落」の章があり、日露戦争と並行してゐた。このあとの章で、東京へ行き左千夫宅にも寄る。このころは富士見から汽車に乗った。
まがね路 富士見より乗り都へと 戻りも甲斐と境越し 次の富士見で馬か歩きか

反歌  信濃には境村あり駅が出来後に合はさり富士見町へと
赤彦は茅野の小学校長だったことがあり、その時なら富士見から12kmで歩けない距離ではない。この時は高島小学校で諏訪在住だらう。信濃境駅の次が富士見駅。

十一月十二日(日)
書籍を少し前に戻り、歌風の変化を見ると、明治三十七年の冒頭から、古今風の柔らかさ、美しさが無くなる。左千夫と会ふ少し前から、子規などの影響を受けたのかも知れない。明治四十二年まで読み終へて、「馬鈴薯の花」に入る。この歌集は短いので、特に感想は無く「切火」「氷魚」に入る。「氷魚」で五つ目の章で「左千夫先生三回忌」になる。今まで左千夫の死は無かったので、前に戻ると「切火」の最詩集に近い位置に
先生の死画像の軸をはづさんと思ふ五月雨の久しかりけり

がある。この頃は「アララギ」休刊の危機、「馬鈴薯の花」の出版、教員(この頃は視学)を退職し上京、「アララギ」の編集発行と、赤彦にとり大変な時期だった。
少し前に戻り読み直すと、「切火」辺りから独自の工夫をした歌もある。工夫はいつも同じではないから、読む側は変化に付いて行けない。また、好きではない変化があると、それが後方の歌にまで尾を曳く。だから一回目は見逃す。
桑の葉の茂りをわけて来りける古井の底に水は光れり

は佳い歌だが、これだけだと前半と後半が関連しないではないか、と短絡する。しかしこの章は連作でこのあと四句が並び、二首あとの
雲とほくまたも行きなん桑の葉のしげりにこもりこの水を飲む

で成程と判る。

十一月十三日(月)
「海嘯のあと」の章では(海嘯はかいしょう。河口に入る潮波が垂直の壁となり逆流すること)
洪(み)水(づ)引きし師の家の道に泥ふかし爪(つま)だてて歩む心安からず
潮水にひたりて枯れし睡蓮の花ただよへり道のべの沼に
泥のうへに渡せる板に遊びゐるわが先生の末の子ひとり
溝川の泥はにほひ来(く)かかる処に家の子をおき逝かせたまへり
みづの後の日を暖かみ庭隅の柵に繋げり汚れたる牛を

左千夫は亀戸から大島へ移転したので、洪水被害は無くなったのかと思ったが、違った。「処」は「ところ」と読むと二文字の字余り。「しょ」ならよいが変だ。「か」もある。住み処で「すみか」と読む用法である。左千夫が亡くなった後も、牛飼ひ業は続けたことが分かる。
大正六年末に長男が亡くなる。悲しみを詠む歌に二首枕詞がある。赤彦は普段使はないから、心が大きく揺れると使ふのかも知れない。大正七年、子の戒名を持ち善光寺へ。「みすず刈る信濃の国に旅だつと(以下略)」と詠ふ。帰郷後校正に入るが、原稿が集まらない歌が八首。この前後に枕詞の歌が離れて二首。大正八年、
先生の心をつぐに怠りのありと思はず七とせ過ぎぬ

その二つ先の章は「先生を思ふ」の八首。赤彦は、左千夫亡き後、視学を退職し上京し「あららぎ」を引き受けるなど、変化が多かった。長男の死もあった。この辺りの歌風の変化を見るのは興味深い。
昨日、独自の工夫を云ったが、本日赤彦の歌風変化の前を読み続けた時は、やはり「馬鈴薯の花以前」がよいのかと考へ直した。しかし読み進み、変化の辺りに来て、また考へ直した。そして「氷魚」を終へる。

十一月十三日(月)その二
本日は「太虗集」へ進んだ。既に何回か頁めくりで読んだので、今回も同様に進めると、美しい歌が並ぶ。和語のみで作られた。赤彦が昔に戻ったかと、「氷魚」を読み返すとやはり和語のみだ。
たまに漢語が入るが少ない。字余りはある程度ある。今まで気付かなかった理由は、章題だ。これに漢語があるため、字余りと相まって気付かなかった。赤彦の歌は、和語優勢で貴重だ。今や和語優勢で詠む人は少ないから、貴重な存在となるだらう。駅を「うまや」と読む。これは貴重な情報を得た。「うまや」は馬だけに使ひ、鉄道には使へないのかと思ってきた。
今回の特集で「(和語優勢うた)」を始めて用ゐたのと合はせ、昔の歌集は江戸時代以前も、明治大正期も為になる。「柹蔭集」に入り、その前もさうだが、ときどき枕詞を使ふ。長子が亡くなったときだけではなかった。
赤彦は 大和言葉で歌を詠み 枕詞をときどきは使ふ人にて 惜しまれて逝く

反歌  若くして亡くなり賞は受けずとも茂吉文明左千夫と並ぶ。
左千夫も若くして亡くなったため、賞などは受けなかった。(終)

「和歌論」(百四十四)へ 「和歌論」(百四十六)へ

メニューへ戻る うた(六百九十六)へ うた(六百九十八)へ