二千十四(和語のうた)窪田空穂全集(平安和歌論、近世和歌論)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
五月二十六日(金)
平安和歌論は百八十五頁(角川書店版)に亘るが、興味深く読めたのは「金塊集の印象」五頁半だった。明治四十二年に書かれたもので、源実朝についてである。
彼には、秀歌をと覗つて詠んだやうな跡がない。(中略)如何にも伸びやかだ。短歌の形式を短きに選ぐるものと思ひ、窮屈なものと思ふ--恐らく其の当時の多くの歌人が感じたであろうと思はれるやうな跡が全く見えない。

なるほど、これは気付かなかった。と云ふか、子規一門の実朝歌論で、彼らが賞讃するのとは裏腹に、それほど実朝を重用してこなかった。このあと空穂は
彼の最も心を動かした事は、人の哀れであつた。

として六首挙げるが、これだけだと子規一門の歌論と同じ感想を持って終結しただらう。しかしその後で
世の中は常にもがもな渚こぐ海人の小船の網手かなしも

を挙げたので、関心が高まった。その解説で更に高まった。
彼は眼に触れる程の風物に対して、たやすく其の趣きを捉へ得、そして其の趣に酔ふ力を持つて居た。遠く趣を逐ひ求めるといふ、所謂歌人風の所はないが(以下略)

更に
多くの歌人のやうに、これを秀歌としようとして、切り刻んで部分の巧者を見せようと狙つた跡がない。(中略)彼の歌に万葉集の面影のあるといふのは、思ふに此の写生の歌を見て云ふのであらうが、彼の性情の自然はたまたま万葉集の作者等と繫合する所があつた。

として、次の歌を挙げる(詞書略)。小生が読んで優れると思ふ部分を赤色にした。
箱根をわれ越え来れば伊豆の海や沖の小島波の寄る見ゆ
大海の磯もとどろに寄する浪われて砕けて裂けて散るかも
吹く風の涼しくもあるおのずから山の蝉鳴きて秋は来にけり
暮れかかるゆふべの空眺むれば木だかき山秋風ぞ吹く
のゐる門田の稲葉うちそよぎたそがれ時に秋風ぞふく
桜花散らまくをしみうち日さす宮路の人ぞ門居せりける

小生の感想は載せなくてよいのだが、どこが優れると感じたのかと、小生自身の歌との関係を明らかにしたほうがよいと思った。
うち日さす宮に枕の言葉にて宮路に掛かるこれは優れる


五月二十七日(土)
「近世和歌論」では加茂真淵について、まづ
真淵は源実朝ひとりを、万葉集以来の歌人としてゐる。

真淵の歌論は
趣向すなわち取材は大きな問題ではない。(中略)調こそ歌の上では第一のものである。(中略)彼のいふ調は、言葉に属したものではない。心に属したものである。(中略)調は、高く直き心の表象(中略)現代の言葉に言ひかへると、まさしく内在律といふことである。

小生も、これまで真淵の説と同じことを考へてきた。ただしそれを調とはせず、取材とした。
高き上直き心で詠む歌を 佳しとするのは同じだが それを調べに含めるはせず

反歌  調べには直きのほかに美しさ新しさなど時には入れる

五月二十八日(日)
真淵の歌について、空穂はまづ連作四首を挙げる。今回も赤色にすると
秋の夜のほがらほがらと天の原てる月影に雁鳴きわたる
こほろぎの鳴くや県の我が宿に月かげ清し訪ふ人もがも
あがた居の茅(ち)生(ふ)の露原かき分けて月見に来つる都びとかも
こほろぎの待ち喜べる長月の清き月夜は更けずもあらなむ

最後の一首は
鳰(にほ)鳥(どり)の葛飾早稲の新しぼり酌みつつをれば月傾きぬ

この歌は、取り上げるほどでもないのだが
彼は『新学』で歌の単純であるべきを教へた後、複雑なことをいはうと思つたら、何首でも連れて詠めばよいといつてゐる。

なるほどそれなら、五首目があるのも分かる。さて
真淵の門弟には歌人が多いが、最も傑出した人は田安宗武である。歌人としての素質の上からいふと、真淵よりむしろ宗武の方が優つてゐる。

ところが空穂の挙げた宗武の歌十七首のうち、小生が佳いと思ふのは
東(ひむがし)の山の紅葉は夕日にはいよいよ紅くいつくしきかも

だけで、「紅葉は夕日には」と同じ助詞が続くところが気になるが、これを選ばないと一首も無くなるので選んだ。小生と空穂の歌感の相違が現れた。(終)

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