千九百九十八(うた)良寛の実父について同意見の論文、笹倉秀夫「良寛の生:その作品から考える」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
四月二十七日(木)
史料による限り、良寛の実父は桂誉章説が正しい。しかし詩と歌から、実父は以南であらう。これが現在の小生の意見だ。同じ主張を見つけた。笹倉秀夫「良寛の生:その作品から考える」である。2017年早稲田法学誌第92巻3号「その作品に見る良寛の生」を改訂し、「思想への根源的視座」と云ふ書籍(笹倉さんの大学教科書?)に載った。
橘屋には跡取りがなかったので、のちに良寛の母となるおのぶ(旧説では「秀」ないし「秀子」を佐渡・相川の橘屋(出雲崎橘屋の分家筋)から養女にとった。やがて彼女は、のちに良寛の父となる新次郎(新津の大庄屋桂家の非嫡出子)と婿入り結婚をし、3年後に良寛(幼名は栄蔵)を出産する。しかしこの新次郎は、桂家の跡取りである兄が出家してしまったため実家に呼び戻される。(中略)その後おのぶは、与板の新木重内(以南、旧説では、かれが良寛の実父とされた)と婿入りの再婚をする。
そして注釈に
上記のように新説では、良寛の実父は新次郎であって、以南は良寛の継父であったとされる。しかし、良寛の作品からは、以南が実父であり由之以下の弟妹が実の弟妹であったと考えるのが素直な読み方である、との印象を筆者はどうしても受ける。
以南を実父とするのは、もはや旧説なのであった。
四月二十九日(土)
注釈には続けて
うつせみは 常なきものと (中略) 父が語らく 世を捨てし (以下略)
の長歌について
ここの「父」は以南である。良寛はそのやさしい励ましの言葉を心に深く刻み、修行の励みとしたのである。ほかにも短歌二首を挙げる。以南の俳句六句も挙げ、雰囲気が通底してゐるとする。
しかし
良寛自身はというと、結婚したが半年で離婚を体験し、また以南への反発もあって18歳頃に突如(中略)出奔し(以下略)
以南への反発について、注釈は
以南は(中略)出雲崎の人びとからは、その激しやすい気性のゆえに嫌われていた。
良寛が弟に嫡男の地位を譲って出奔したから、以南は良寛への非を悟り、以後は良好な関係になったと思はれる。
新説と旧説を書く論文で 良寛の父新次郎 育ての父は以南にて 育ての父を実父とし励ます言葉心に刻む
(反歌)
良寛の詩歌に見える高貴さは以南の句とも通底をする(終)
「良寛の出家、漢詩、その他の人たちを含む和歌論」(百六十二)へ
「良寛の出家、漢詩、その他の人たちを含む和歌論」(百六十四)へ
次の良寛へ
メニューへ戻る
うた(五百三十七)へ
うた(五百三十九)へ