八百二十六 「浅草寺仏教文化講座」1.吉永みち子氏の楽しく有意義な講演、2.東京大学の文系は無駄だから廃止しろ(丸井浩教授批判)

平成二十八年丙申
三月三十日(水) 第一部
一昨日は浅草寺仏教文化講座があり、午後半休を取つて聴きに行つた。第一部は ノンフィクション作家・エッセイストの吉永みち子さんの「逆境から学ぶ」だつた。吉永さんは講演を職業とする訳ではないから、聴き初めに「間の取り方が悪いのでは」などと感じてしまつたが、聴き始めて2分を経過すると、話の面白いことに感心した。
講演の題を何にするかについて「第二部が重要なので、第一部は何でもいいですよ」と云はれたといふ話がまづ面白かつた。両親が高齢のときに産まれた子なので、小学校で周囲の両親と比べて「うちは変だぞ」と感じた話で、また面白かつた。父が亡くなつたあと、母が重病になつたときの話は、普通の人が話すと暗い話になつてしまふのに、それを明るく話せる。その才能は天性のノンフィクション作家・エッセイストだ。
東京外国語大を受験のとき、耳が不自由で聴き取りができなかつたが乗り越えた話、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した数年前に受賞した女性は農家に嫁に行つたため七十歳になつてから書き始めたが、その前の期間は作家として頭の中で書いてゐたといふ話。退屈することなく有意義な講演だつた。

三月三十一日(木) 第二部1
第二部は「東京大学大学院人文社会系研究科・教授」「(公財)中村元東方研究所常務理事」といふ肩書の丸井浩氏が登壇した。この講演がひどい内容だつた。題は「無我」の教え~対立を乗り越えるための知恵~と立派だ。まづ1.インド社会=言語・民族・宗教・思想のるつぼで、正式国名がバーラトで、スィンドゥを外国人が聞いてインド、ヒンドゥー、ティンドゥ(天竺)になつた、宗教はヒンドゥー教徒が80.5%、何教が何%といふ話があり、住民はインド・ア-リヤ系77%、ドラヴィダ系21&、その他シナ・チベット系、アウストロアジア系といふ話があつた。
最初聞いたときは後に良い内容が続くのだらうと期待して何の不満もなかつた。しかし講演を最後まで聴き終り振り返ると、これでは中学生の文化祭の発表程度だ。

四月一日(金) 第二部2、3
2.インドの言語事情も同じだ。憲法指定言語が22で、アーリア系15でヒンディー(北インド、公用語)、ベンガーリー(西ベンガル州)、マラーティー(マハーラーシュトラ州)、サンスクリットなどとある。他の三つの言語系についても同じだが、だからどうなのかといふ突つ込みがない。せつかくサンスクリットが出てきたのだから説明すればよいではないか。聴者はほとんど仏教に関心のある人たちだ。またベンガーリーとは何か。ほとんどの人はベンガル語なら聞いたことがある。インターネットで検索するとベンガリーといふ単語も僅かだが存在する。しかしベンガーリーは一つもなかつた。つまり日本中で丸井浩氏以外は誰も使はない「ベンガーリー」といふ単語を臆面もなく使ふ。ここに丸井浩氏のやる気の無さが現れた。

3.インド思想史一瞥ではせつかく、前5~6世紀 反ヴェーダ的革新思想(仏教、ジャイナ教等)などインダス文明から近現代インド思想まで八つ並べたのだから、仏教のどこが反ヴェーダ的革新思想なのかを話せばよいではないか。或いはヒンドゥー教の台頭と大乗仏教の成立」も解説すれば興味深い内容になる。これらと先ほどのサンスクリットは、どれも一つ1分で話せる。30秒でも話せる。それをせず、項目だけ読むから意味のない講演になる。

四月二日(木) 第二部4、5
4.インドの大地:"多様性の中の統一性"では、宗教、言語の多様性を踏まへて 最有力なインドの哲学思想はヴェーダーンタの一元論とし、その理由を多様性だから差異を超える一元論が発達したのかもしれない。とするが、「発達した」と断言すべきだ。そしてその根拠を示すべきだ。こんな曖昧な云ひ方をしてよいと思つてゐるのか。実に聴衆を馬鹿にした態度だ。最後にブッダ以前のウパニシャッドの「梵我一如」に言及し
・万物は一者(梵=ブラフマン)から生まれ、一者に帰る
・一者のもとにすべては肯定される(有無を超えた有)
・一者のもとにすべては否定される(有無を超えた無)
とするが、梵我一如を云ひたいのか、有無を超えた有や無を云ひたいのか不明だ。丸井氏は梵我一如だから有無を超えると云ひたいのだらうが、梵から我が生まれたとすると、我と他人は同一だとしないと有無を超えることはできない。インターネットを検索するともつと判りやすい説明をすぐに見つけることができる。例へば沼津高専教養科哲学の野沢正信氏のページだ。
梵、すなわち「ブラフマン」と我、すなわち「アートマン」が同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする。これが梵我一如の思想である。(中略)宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると、瞑想の中でありありと直観することを目指すのが梵我一如の思想である。これによって無知と破滅が克服され、永遠の至福が得られるとする。
これならよく判る。

5.ウパニシャッドの「梵我一如」"私はブラフマンである"の最後には梵我を一体のものとして直観する神秘体験(梵我一如)がベースとなって発展した神秘思想。と、野沢氏の説に近いことも述べてはゐるが、神秘体験、神秘思想と曖昧な語を用いるから判りにくい。しかもヴェーダ聖典はインド最古の文献だの、ヴェーダの最終部がウパニシャッドといふ付属文献だのと余分な内容で前半の2/3を占めるから、後ろの1/3が見過ごされる。そもそも丸井氏は表題を棒読みする程度の話し方だから、聴衆の99%は聞き逃しただらう。

四月七日(木) 第二部7
今回丸井浩氏を批判するきつかけとなつたのは、7.仏教という宗教思想の特質-「無」の思想に、東アジア人とは思はれない大きな顔の絵とともに
「ムーッ!」
・趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に還(かえ)って仏性有りや(以下略)」州云く、「無。」
・ある僧が趙州和尚に尋ねた、「犬(狗子)にも仏性が有りますか?」  趙州は云った、「無」。

といふ文章が載つた。まづ「無」を日本語に訳すときは文脈によつて「ありません」「無いです」「無い」と変へなくてはいけない。それなのに「無」のままだと「無い」を更にぶつきらぼうにした印象を読者に与へる。「ムーッ!」に至つては言語道断だ。大学教授の云ふことではない。
趙州和尚をインターネットで調べると曹州(今の山東省)出身とある。インド系と思はれる顔つきの絵はいつたい何か。多くの聴衆の関心はそこに行つてしまふ。

四月八日(金) 第二部8
8.「無」の思想:いずれにもこだわらないには貴重なことが書かれてゐる。
肯定と否定の二者択一の中で、否定を選び取っているのではない。むしろ肯定と否定の二者択一(二項対立)へのこだわりを離れよ、というメッセージが否定表現になった
⇒「中道」(不苦不楽、不断不常、不消不滅、不一不異、非有非無、非想非非想)

しかし世間一般ではこれらは「空」であつて「無」とは異なると思はれてゐるし、虚無主義とどこが違ふか説明すべきだ。その次に
自立的、固定的、実体的な存在はない、という存在感。
⇒「空」「縁起」

とあつたとしても、講演でここを強調しないから聴衆は素通りしてしまふ。

四月十日(日) 第二部9
9.悟りの知:「般若」、「無分別」もよい内容だ。
・ものごとを言葉(概念)で区分けする分析的思考方法
=仏教では「分別知」=迷いの知、誤った知のあり方
・分別知=善悪、美醜、真偽、苦楽、有無などの両極端(辺)のいずれかにこだわる
⇒我欲にもとずく取捨選択⇒思い通りにならない現実(苦)
・ものごとを区別なく一つに見る=正しい知、覚り
=仏教でいう「般若」「無分別智」=ウパニシャッドの梵我一如
・特に主体と客体の区別 ⇒ 自分と他者、自分と社会/世界
・競争原理の中で格差拡大、自己の孤立=現代の危機
・頭を空っぽにすること⇒自分と他者
/世界の境界を超える
「自他不ニ」「無我」「空」⇒生きがいの回復


よい内容だが精査し、私と意見の異なる部分はだいだい色にした。最初のだいだい色の部分で両極端といふが善悪、美醜、真偽、苦楽は善いものと悪いものだ。かういふものは両極端とは云はない。例を挙げると二本の電線が+5Vと-5Vなら両極端だが、+5Vと0Vだと両極端とは云はない。次に競争原理の中で格差拡大といふが、それに「無」の概念で対抗できると思ふか。私は無理だと思ふ。だから私は唯物論に反対することで対抗してきた。自分と社会を一体とするのはよい。社会の一員として自分も他人も同一に扱ふのもよい。しかし自分と他人を同一と解釈することには不同意だ。しかし「自他不ニ」といふ言葉は伝統を尊重して反対しなかつた。「頭を空っぽにすること」には反対だ。ここでいふ「頭を空っぽ」とは空でも丸井氏のいふ無でもなく、本当に無いことだ。丸井氏の頭の中が「空っぽ」なのではないかと嫌味を云ひたくなる。

四月十三日(水) 第二部10以降
8と9について従来多くの人たちが解説して来た「空」の概念を超えることはないものの、一応読む価値はあつた。ところが10以降は意味のない話に終始する。10は
・「急がば回れ」「負けるが勝ち」「攻撃は最大の防御なり」
・「私(パウロ)はキリストのために、弱さ、(中略)、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(以下略)
・「心の貧しき者は福(さいはひ)なり(以下略)」
・「無為の為」(『荘氏』則陽篇)
・「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」(『歎異抄』3)
・情報過多⇒知りたくなくなる


これは目的の異なるものを雑多に並べただけだ。「急がば回れ」など三つは目的に向かふ手段の補強のため逆を行ふ。「私(パウロ)はキリストのため(以下略)」とその次の行の二つは、手段が困難なため目的を見失はないよう歯を食ひしばる場面だ。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」はこれまで多くの人が色々な解釈を試みた。少なくとも悪を奨励するものではないことは確かだ。情報過多に至つては現代社会の歪みだ。
12で星野富弘さんといふ元中学校体育教師で24歳の時に体操の模範演技で首の骨を折り首から下が不随になり、口で筆をくわへて絵を書く人の詩を紹介した。話自体はよいものだ。しかしここで掲げることは不適切だ。なぜなら「いい話だ、私も全身不随になりたい」と思ふ人は聴衆に一人もゐない。話す丸井氏だつて思はない筈だ。
時間があるなら星野さんを紹介するのはよいことだ。一番良いのは星野さんの話だけで一時間講演することだ。ところが丸井氏は他の項目は内容に踏み込まなかつたのに、星野さんの紹介と詩を多数読むことだけは時間をたくさん費やした。実に意味のない講演だつた。

四月十四日(木) こんなつまらない講演が出現した理由
私が今までに聴いた講演で一番低級なのは加山リカで、理由は中身がない。二番目に駄目なのが今回の丸井氏で、章によつては意味があるものもあつたが、全体では意味がない。加山リカの場合は、マスコミに踊らされて実力がないのにあると勘違ひした。丸井氏の場合は東京大学教授といふ肩書を優れたものだと勘違ひした。前に聴いた東京工大教授上田紀行氏の講演も同率二位でひどかつた。
なぜこんなことになるかと云へば、関口真大氏の著書にそのヒントがある。関口氏の著書のなかで前東京大学講師といふ肩書のものだけ出来が悪い。著作や講演は努力しないと良いものはできないのに、肩書だけで、或いはマスコミに登場するだけで良いものができると勘違ひしてしまつた。

今年度から国立大学は「世界最高水準の教育研究」「特定の分野で世界的な教育研究」「地域活性化の中核」の三つに分けたさうだ。東京大学の場合、医学部、理学部、工学部、農学部は世界最高水準の教育研究だ。しかしそれ以外の学部は三つのどれにも該当しない。第四の類型として「以上三つのどれかに寄生する学部」といふものを作つたほうがよい。東京工大の上田氏も同じだ。工学部は優れてゐるかも知れないが、一般教養で教へる上田氏はまつたく優れてはゐない。上から見下す話し方と有名人を羅列して自分も仲間に入らうとする根性と非先進国の文化を蔑んだ目で見る姿勢は、間違つてゐる。
東京大学の文系は廃止すべきだ。或いは大学を分割してもよい。医学部、理学部、工学部、農学部だけ独立し東京先端大学としたらどうか。東京大学がどこまで転落するか見ものだ。(完)


固定思想(百十一)固定思想(百十三)

東京大学批判その十二次、東京大学批判その十四

メニューへ戻る 前へ