七百三十九 築地本願寺参拝記(1.香山リカの講演は内容がない、2.英語法座に参列)

平成二十七乙未
八月三十一日(月) 唖然とした香山リカの講演、前置き編
今月の仏教文化講座は精神科医でマスコミによく登場する香山リカ氏である。聞きたい訳ではないが夕方五時半から英語法座があるので、そのついでに参加した。なぜマスコミによく登場するのかその理由を探らうといふ気持ちもあつた。築地本願寺の本堂は中央がパイプ椅子、左右はゆつたりした椅子である。パイプ椅子はかなり埋まつたので私はゆつたりした椅子の最前列に座つた。講演に先立ち宗歌の斉唱の前に香山さんは舞台上の私のすぐ近くに座つた。だからすごく親しみを感じた。全員起立で宗歌の斉唱が終り中央の演台に向かつた。しかし私の親しみはここまでだつた。香山さんの講演には中身がない。
まづ立教大学の教員をしてゐて、この日は終了後にある教会を借りて、立教と上智で合同の安保法案反対集会があり、その司会をするといふ。次に立教大学のある教授のところにアメリカの牧師から日章旗を返還したいといふ申し出があり、それは立教から学徒出陣して戦死した人たちが書き込んだものだつた。牧師と立教は同じ会派で教授と面識はなかつたがインターネットに載つたアドレスに送つた。戦争のとき立教大学は学則からXX教を削除し戦争に協力したので、今その反省をした。以上の話で二十分掛かつた。アメリカの牧師から日章旗を返還されたといふのはよい話である。せつかくのよい話なのに二十分掛けて長々と話すから退屈な前置きになつた。出席者の多くは浄土真宗本願寺派の門徒である。XX教の話はよいから早く本題に入つてくれといふのが本音であらう。私はXX教でも仏教でも構はないが長々と話すのは止めてほしい。前置きは3分で話せる内容である。それに20分掛けると聴者は退屈する。

九月二日(火) 唖然とした香山リカの講演、本題編
本題に入って更に驚いた。話の中身は、
自分をこきおろす、鞭打つ人は多いが、自分はよくやついると温かい目を向けてほしい。体の病気のときは日常の行動さへ大変だがそれを毎日やつてゐる。自分で自分をけなすほどストレスになることはない。逆に傲慢になるのもよくない、自分だけではなく、人間のすることは正しい、科学は正しい、も駄目。

この内容を講演時間80分のうち前置きで20分経過したので残りの60分間話した。同じ話の繰り返しが多く実に時間の無駄を感じた。前置きは3分で話せる。本題は6分で話せる。つまり9分で話すべき内容である。本題は前半がほとんどで、後半の「傲慢になるのもよくない」の部分は前半だけだと片方に偏りすぎるのでその補正である。しかし補正を入れると判り難くなる。例へば、明日は気温が高いから注意しろ、といふのはよく理解できる。しかし明日は気温が高いから注意すべきだがもしかすると低いかも知れないからその注意もしろ、といふといつたい何を云ひたいのか意味不明になる。

(追記九月六日(日)香山氏の講演がどれだけ空虚な内容なのかは、同じく精神科医小田晋氏の講演と比べればよく判る。こちらは九十分である。香山氏の講演には精神科医としての専門の話が一つもない。)
(追記その二九月十二日(土)講演の題は「心のよりどころの見つけ方−医療、宗教、文化をめぐって」だが、医療の話は専門とは無縁の雑談程度だし、宗教の話は牧師と立教大学を除くと、人間のすることは正しい、は駄目といふ話の続きで「仏、親鸞さんに訊いてみる」と云つただけだ。仏、親鸞さんに訊いても涅槃したから答へを作るのは人間である。その対策が一言もなかつた。文化に至つては一言もなかつた。これほど題と異なると詐欺ではないのかと云ひたくなる。題を見て医療と宗教の関係を聞きたくて遠方から来た人もたくさんゐただらう)

九月四日(金) 香山リカの講演、まとめ
前置きに入る前に、すべての宗教は人びとの幸せを願ふ、しかしともすれば戦争が起こる、といふ一言があつた。この後に立教大学の教員をしてゐるといふ話につながる。香山氏はこの一言しか云はなかつたが、その理由はどの宗教も出現したときは世界がこれほど広いとは判らなかつた。だから自分の宗教を世界に広めようなぞと大それたことを考へてはいけない。外国で信仰したい人がゐれば懇切丁寧に指導すべきだし、日本国内に外国の宗教を信仰したい人がゐればこれもおおらかに認めるべきだ。しかし外国に武力や経済力で信仰を押し付けてはいけない。西洋は近代資本主義といふ宗教を世界に押し付けようとするから戦争になる。まづ西洋は自分たちのやり方の世界への押しつけを中止すべきだ。
次に先の大戦は資本主義で経済力と武力を蓄へた国によるアジアアフリカの植民地化と、生産力と消費量の不均衡に起因する恐慌が原因である。それがどこで宗教と結びつくかといへば、資本主義は人々の幸せに反する思想だとして宗教が反対しなかつたことが原因である。これは宗教だけに責任を負はせてよいものではない。また宗教が人間の欲を制するのに完全ではないことが資本主義を生んだ原因であり、これは宗教に多くの責任がある。香山氏は講演者なのだからここまで云はなくてはいけない。

前置きの部分で、当時立教が戦争に協力したことを反省とあるが、これは絶対に反対である。当時の状況をよく知る人々が、敗戦でGHQが乗り込んで来たあとで書いた内容が一番正しい。昭和二十年代は経済が混乱した時代だから偏差が大きいとしても、昭和三十年代、四十年代の主張が最も正しい。将来歴史学者が考察するとすればこれらの年代の言論である。反省は当時の人たちがすべきだ。我々は当時の人たちを批判はできても反省はできない。ローマ法王が中南米で反省を口にするのは何百年も経過してからのことだし、先住民社会の破壊といふ大それた行為があつたからだ。
ここ二十年ほど戦中戦前のことを反省する人間が出現したが悪質な偽善者である。それより今、我々が戦後まもなくの言動を批判するとすれば、GHQが現れて急に親米になつたその言辞こそ批判すべきだ。戦前の批判は昭和二十年以降既に為された。これからの言論はGHQ存在下での偽善言辞を批判すべきだ。

九月四日(金)その二 英語法座までの五十分間
香山氏の講演が終つたのち英語法座まで時間があるので築地本願寺の周りを歩いた。左横の一階部分に仏壇屋がある。本願寺派だけではなく大谷派、更にはX宗など他宗派向けの展示もあつた。来店するのは本願寺派の門徒がほとんどだと思ふが、一般の仏壇屋なので一通り揃へてあるようだ。裏側は本堂の後ろに寮があつた。その後、築地の場外市場を歩いた。築地小劇場跡を見て本願寺に戻つた。
築地には朝日新聞の本社もある。築地本願寺と並べて見ると、まるで西方浄土の隣に阿鼻叫喚地獄があるようなものだ、阿弥陀仏の隣に調達(じょうだつ、提婆達多)を脇侍として立たせたようなものだ、とそこまで毒づく必要はないか。香山リカがなぜマスコミに登場するかは、拝西洋のリベラル言辞が一部のマスコミに受けたためである。マスコミの多くは拝西洋リベラルであり、口当たりは良いが虫歯の原因となる砂糖に似てゐる。リベラルとは唯物論であり悪魔の思想である。そして唯物論とは神を信じないことではなく社会破壊であり文化破壊である。

九月五日(土) 英語法座に参列
英語法座に参列しようと思ひ立つたのは、二十年前アメリカに八か月仕事で滞在した。近くのサンマテオ市には日本人街があり夏に盆フェスティバル(盆踊り)があつた。真宗の僧が英語と日本語で法話を話した。かういふ場合、日本語のほうだけを聴いた。今回は英語で聴かう。これが今回の目的である。法座の始まる前に受付の若い僧侶と雑談をした。サンマテオのお寺は浄土真宗本願寺派で立派な建物ださうだ。
法座は
Prelude
Opening remarks
"The Aspitation 2"
Sutra Chanting "Juseige"
Gatha "Shinshu Anthem"
Recitation of "Three Treasure
と続き、Rev. Kohjun Suehiraによる講演"The History of the Honpa Hongwanji Mission of Hawaii and the people who lived in the Nembutsu"(本派本願寺ハワイ教団の歴史と念仏に生きた人たち)があつた。ハワイへの移民は広島(安芸門徒、西)、山口、福岡の出身者が多かつた。布教、寺院建立、病院との連携、一世による二世の日本留学など、異国での苦労の数々を話された。
法座の最後に一列に並び焼香をして喜捨を行つた。私の前の人は初参加なのだらう。喜捨せず焼香だけ行つた。このようなときは少額でもよいから入れるべきだ。或いは別の宗教に所属するのかも知れない。私は普段より多めに入れた。聞法ホールにはピアノが設置してある。斉唱のとき僧侶の一人が伴奏された。旋律は讃美歌の雰囲気を持ち美しい。これなら外国人が参拝しても遜色ない。ハワイやアメリカでの布教経験が生きてゐる。(完)


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