七百六十一 五つの行事が重なつた日(1.「インド密教の瞑想」、2.「仏教のふるさとを散歩する ~中国編~」、3.現された「満洲国」講演会、4.「宮澤賢治忌法要」、5.私的セミナー)

平成二十七乙未
十月二十五日(日) 一番行事が重なつた日
昨日は生涯で最も行事の重なつた日とならう。まづ川崎大師教学研究所が主催する二日間に亘る「インド密教の瞑想」(受講料1000円)といふ講演会があり、これに参加の予定だつた。ところが私的セミナーと重なつた。そこで私的セミナーは妻に行つてもらふことになつた(結局妻も別の用事が入つていけなかつた)。
更に池上本門寺で「仏教のふるさとを散歩する ~中国編~」が宮沢賢治シリーズの後継として十月から始まり、これも出席したかつた。日本と中国は西洋の規範で国交を行ふのでは、いつまで経つても親善が深まらない。今こそ仏教で友好を深めるべきだ。
更に「現された満州国」が日本大学文理学部の資料館で行はれてゐて、この日に武蔵野美大・大阪芸大の非常勤講師を勤められる方と、国際日本文化研究センター教授の中国人の方が講演をされる。これも聴きたかつた。「仏教のふるさとを散歩する ~中国編~」で中国との親善を模索しながら、「現された満州国」では逆だと云はれさうだが、満州国は歴史から消すことはできない。事実として認めた上で西洋の規範によらない日中の親善を深める方法が有る筈だ。それを探らうといふ次第である。
更に先週或る図書館で、日蓮宗新聞に江東メモリアルといふ墓苑を経営する日蓮宗法華堂教会が主催する宮沢賢治忌があることを知つた。こちらのほうは北山本門寺系結社の住職から五月にお聞きし、法華堂は千住にあるが国柱会も参列できるよう場所の近い江東メモリアルで行ふとのことだつた。 (宮沢賢治10)から (宮沢賢治16)はその影響である。その後、日蓮宗新聞に寺に娘しかゐないときに別の寺の次男や三男を嫁がせる企画を読んで日蓮宗への熱が冷めた。

どれに参加すべきかは当日の朝まで迷つた。最終候補は「仏教のふるさとを散歩する ~中国編~」と「宮澤賢治忌法要」だつた。「現された満州国」は展示を観ればよいし、「インド密教の瞑想」はまづ密教の瞑想が判つてから別の機会で参加しようと思ふ。最終判断は、江東メモリアムは訪問したことがないといふことだつた。教会といふ檀家のない組織からここまで大きくしたその布教力は見事である。

十月二十五日(日)その二 宮澤賢治八十三回忌
法華堂の住職は池上本門寺系で、高齢のため椅子に座つて団扇太鼓を持ち、導師はご子息が務められた。参列者は十五名前後だつた。ご子息の法話は、白楽天が県知事に任命され領内に名僧がゐると聞いたので早速出掛けた。木の上で瞑想をする僧がゐるのでそんな上にゐると危ないぞ、とどなると上からも、下にゐると危ないぞと声がする。そのうち会話が弾むようになつて上の僧に仏教の神髄を訪ねた。僧はよい事を行ひ、悪いことはしないと答へた。白楽天は腹を抱へて笑ひ、そんなことは三つの幼児でも知つてゐると言つた。僧は、三つの子でも知つてゐるが実行するのは難しいと答へた。白楽天は恥ずかしく思つた。
これはよい法話である。難しくなく、それでゐて退屈しない。自分や自分の周りの人に起きた話題だと汎用性がない。昔からの話には汎用性と永続がある。法要終了後、墓苑に降りて戦没者供養塔の前で皆が焼香した。

十月二十六日(月) 講演会
引き続き一階の集会場で、お茶菓子を食べながら住職の講演を聴いた。
昔はお会式は池上から夜通し堀之内まで歩いた。一貫三百どうでもいい、といふ言葉もあつた。一貫三百は一日の職人の収入で仕事より信心だといふ意味。今は職人が少なくなつた。
広島まで原水禁、原水協といつしよに行進したことがある。日蓮宗も参加することになつたが希望者が見つからず、当時は仕事もあつたが広島まで参加した。だから左翼と云はれたが、今は右翼と云はれる。

手に持つ団扇太鼓は行進のときに使つたものださうだ。次に本日の講題である宮澤賢治と妹トシに入られた。家族のなかで唯一賢治とともに法華経を信仰した。「永訣の朝」「無声慟哭」「松の針」そして無題で手紙4と呼ばれてゐるものを朗読された。講演を聴きながら、私は手紙4の
どんなこどもでも、また、はたけではたらいているひとでも、汽車の中で苹果をたべているひとでも、また歌う鳥や歌わない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがいのきょうだいなのだから。

の文に線を引いた。また、万霊供養塔と戦没者供養塔の球について回帰妙法を表すといふお話しがあつた。昔は33回忌で先祖様に帰る(つまり33回忌が最終)といふお話しもあつた。

十月二十七日(火) 万霊供養塔と戦没者供養塔
万霊供養塔と戦没者供養塔(12)には宮澤賢治の「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」などの言葉が書かれてゐる。住職はまた宮澤賢治精神布宣会の代表でもある。
講演の中で昭和天皇様といふ云ひ方をよくされた。陛下といふ表現は明治維新後のものだから私はまつたく使はない。住職は一回使はれただけだつた。私は前に金子みすずを取り上げたことがあつたが、江東メモリアルの受付にも金子みすずのポスター(講題の「宮澤賢治と立正安国論」は四年前のものを間違へて書いた)が貼つてあつた。ここも共通である。

十月二十八日(水) 昭和神宮
講演会のときテーブルが縦に四列に向かひ合はせに並び、私は前から3列目にゐた。北山本門寺系布教所の住職が内側の列の前から二列目に座られ、外側の列は二人座つてゐたため、始まる前は2列目と3列目で斜めに話をした。明治の日制定を求める集会のパンフレットを頂いた。私の隣の前から2列目の方がパンフレットに興味を持たれた様子なので、よければお持ちくださいと云つたが、構成団体に知つてゐるところがあるのでそこに問ひ合はせるとのことだつた。
講演終了後に、来賓挨拶で、昭和神宮の創建を目指す団体の会長が話をされた。私の列の1列目の方で、2列目の方も同じ団体だつた。インターネットで調べると昭和神宮の創建を目指す団体は二つあり、どちらの団体かは判らなかつた。
次に北山本門寺系の僧侶が挨拶された。院主(教会の住職)とは三十年の知り合ひで先輩だといふ話をされた。

昭和神宮について、まづ昭和神社として小規模のものから始めるのがよいのではないだらうか。萩の松陰神社も最初は小さな社だつたがだんだん大きくなつた。昭和神社を将来、昭和神宮のように大きくするかどうかは後世の人たちに委ねるのがよい。
名称については、神宮とは伊勢神宮のことで、更には鹿嶋神宮、香取神宮も古来称するから、明治神宮や熱田神宮は改称したほうがよい。明治神社では軽すぎるから、大神社の称号を新たに設けて明治大神社と称するのがよい。熊野大社なども同じである。大社は出雲大社のことだから熊野大神社と称するほうがよい。

十月二十九日(木) 講演第二部
講演は第一部に引き続き、第二部として創価学会と顕正会を批判された。概略は
立正大学の学生時代に袈裟を着て通学した。五反田駅近くでよく創価学会員に折伏された。「大石寺には血脈と戒壇の大御本尊がある。身延には無い。学会に入らないと不幸になる」と云はれた。大石寺の日蓮本仏は間違つてゐる、釈尊への師敵対だ

このような内容だつた。お話を聴いて思つたことがあつた。創価学会は血脈と戒壇の本尊を折伏の題材にしたため、優秀な人が入らなくなつた。六老僧を決めたのに、そのうち日興にだけ血脈があるといふのは変だし、日興と日目が亡くなつたあとは、大石寺も北山本門寺も後継争ひが起きたから、血脈があらうはずがない。戒壇の本尊は一機一縁の本尊なのに、すべての本尊はこの本尊の写しだといふ教義も変である。しかしこれらも今では無意味な議論になつた。六十六世日達で血脈は切れてしまつたし、戒壇の本尊は後世の作であることが判つてしまつた。
日蓮本仏も誤りである。私がこのように考へてゐたのは今年七月頃までである。勿論日蓮本仏は今でも誤りだが、日蓮を本因妙の上行菩薩とすることには反対ではなくなつた。久遠実成の上行菩薩と本因妙の上行菩薩を分ける理由は、曼荼羅の配置が説明できない。釈迦牟尼仏は題目の脇侍で小さく書かれてゐる。勿論仏滅後二千二百二十乃至三十の讃文があるから釈尊が現代でも本仏であることは間違ひない。だから日蓮を本仏と呼んではいけない。いけないが本因妙の上行菩薩つまり本因妙の教主と呼ぶことは間違ひではない。
勿論、本来このような議論は無駄である。たまたま江戸時代に大石寺と京都要法寺の通交が回復した。大石寺に造像の習慣が入つた。それを廃するための議論である。平時に民家に高圧の水を当てて窓から中を水浸しにしたら大変である。しかし火事のときは誰も大変だとは思はない。それと同じで日寛の主張は非常時の議論とすべきだ。それより読経の意義を破折や借文にすることは誤りではないのか。これも大石寺に入り込んだ法華経全体読誦に反対するためだとしても、許される範囲を超えてゐると思ふ。その一方で要法寺でも造像廃止が行はれたり、日寛を偲ぶ行事が大石寺でずつと続いた背景を今後考察する必要がある。

十月三十日(金) 他宗批判
創価学会と顕正会批判に続いて禅宗を批判し、座禅をすると釈尊とは別のことを悟つてしまふと云はれたが、これには異論がある。釈尊と同じ修行をして釈尊に準じた悟りを得ようとすることは当然である。日蓮信仰者が題目を唱へると宗祖とは別の悟りを得てしまふから題目ではなく、南無日蓮聖人と唱へるべきだといふのと、座禅をすると釈尊とは別のことを悟つてしまふと云ふのは同じだと思ふ。
勿論、法華堂の住職が座禅を批判されたことは宗祖の四箇格言に沿つたものだから、日蓮宗の僧として普通のことである。その一方で四箇格言は、念仏は浄土、禅は悟り、真言は国祷、律は国師といふのが鎌倉時代の常識だから、その逆を云つて念仏は無間地獄、禅は天魔の妨害、真言は亡国、律は国賊と述べただけで当時の堕落した仏教を批判したと捉へるべきだ。
そのことより禅宗から一つの修行への集中が始まつた。それまで仏教は戒律を守り、瞑想を行ひ、諸経を学んだ。それに対して禅宗以降、一つに集中するようになつた。禅宗は戒律を守り(明治維新までは)、諸経を読誦学習するから、すべて行つたといへないことはない。だとすれば法然の浄土宗以降だらうか。
日蓮の題目もその流れの上にある。しかし大乗仏教は瞑想の方法だと気が付けば、昨日の分を含めてこれらの議論はみな解決する。(完)

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