七百四(その七)、宮沢賢治と宗教文学

平成二十七乙未
七月二十九日(水) トシの死の後か
私は賢治の信仰を(1)熱心だつた時代、(2)冷めた時代、(3)復帰した時代、の三つに分けて(1)から(2)への移行をトシの死においた。(2)を国柱会から離れて法華経信仰に発展した或いは日蓮宗(身延)信仰になつたとする人もゐるが、それはない筈である。この当時日蓮宗の末寺は帝釈天や観音などを祭ることが多く、自筆の本尊を後に手帳に書いた賢治として、また田中智学の反日蓮宗志向からそれはあり得ない。日蓮を離れた法華経信仰といふ選択肢もあり、それは一面では正しい。賢治は日蓮にほとんど言及しないが、日蓮を飛び越して天台や釈尊に言及することもないからである。賢治にとり法華経信仰と日蓮信仰は同一だつた。
(2)のときに宗教全体、或いは菩薩信仰になつたことはあり得る。それは書籍「春と修羅」の中の「有明」といふ詩の末尾に「波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶(ハラサムギャティ ボージュ ソハカ)」と般若心経を書いた。トシの死は大正十一(1922)年十一月、「春と修羅」の出版は同十三(1924)年四月。目次には日付が入り「有明」は(一九二二、四、一三)でトシが亡くなる七か月前である。しかし日付は最終稿完成日ではなく起草日だし、「波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶」は括弧が付くから後から追加したことも考へられる。似た例として未発表作品の「竜と詩人」は「一〇、八、二〇」の記述があり分銅惇作、栗原敦編「宮沢賢治入門」は一〇を大正一〇年とした上で、字体から草稿の成立を大正十一年以降と推定してゐる。

七月三十日(木) トシの死の前とすると
日付を重視すれば、「波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶」はトシの死の前になる。トシの発病で花巻に戻り国柱会の活動に参加できなくなつた。或いは重症を繰り返すトシと毎日会つた。それが冷めた時代を呼んだのかも知れない。しかし最大の理由は家出してまで東京に移住し、布教活動に参加し、法華文学を大量に書いた。それなのに花巻に戻らざるを得なかつた。ここが冷めた時代の出発点である。
多くの人たちに見逃されたが、賢治は高知尾氏の意見で文学を始めたのではない。その前から地元の文学愛好者として岩手県内の新聞に投稿し地元では多少知られた存在だつた。それが高知尾氏の指導で法華童話ともいふべき貴重な作品を膨大な数作つた。しかし花巻帰省の後は法華童話から純文学の近代詩に移行した。 かう考へればすべてがうまく合ふ。

八月一日(土) 「現代詩物語」
分銅惇作氏ほか一名の編纂による「近代詩物語」は昭和五十三年の発行で、その第九章は宮沢賢治について書かれてゐる。同五十六年に出版された分銅惇作氏の単行本「宮沢賢治の文学と法華経」はこの章と共通の部分が多く、この本に加筆したのであらう。今回取り上げるのは「近代詩物語」の姉妹編の「現代詩物語」である。編纂者は前者と同じである。この第五章に嶋岡晨氏が草野新平について特集した。ここに宮沢賢治が登場する。『春と修羅』を一冊新平の後輩が買ひ中国にゐた新平に送つた。
新平は、一読「強い電流にふれたようなショックを覚えた」(「宮沢賢治の詩」『賢治のうた』昭40)−何が新平を打ったのか。/「無頼の徒であった私は、宮沢の清冽な水をあびることが清潔な善の如くにも考へたからかもしれない。いや恐らくはちがつてゐる。人間と自然との渾然としたあの深い美しさに感動したのだ」「彼は先づ第一に詩人であつた。童話も書いた。そして法華経も信じ科学も知つた。その宗教と科学を根強くつつましく誠意をもつて実践した。それらの渾然一体。彼の特性と美しさがそこにあつた、・・・」(『宮沢賢治覚書』昭26)、「万葉の原始の眼もこれ程までに[雲を見る賢治の眼ほどに]原始ではなかったし、所謂近代知性の眼も、あの雲の転変生成をこれほどまでに分解してしかも新鮮度無類の姿を展開してはくれなかつた」(『春と修羅』に於ける雲」『宮沢賢治研究』昭14)

賢治の死後に新平と高村光太郎が賢治の全集を企画したので、現代人はとかく賢治を新平の弟子であるかのように感じてしまふ。しかし賢治は新平より七歳年上であり、
大正一三年当時の心平の潜在的資質を、むしろ賢治が掘り起こしたといえよう。

しかし心平が賛美したのは自由詩であり、昭和六年賢治が文語詩を送つたときはこれを掲載せず、別稿を依頼した。

八月二日(日) 東京滞在時代、花巻帰省後、トシの死から時間の過ぎた後
東京に滞在した時代に書いた童話には現代社会の愚かさを風刺するものが多く、これはまさに法華経文学である。花巻帰省後に始めた口語詩は純文学である。しかし一つ一つの詩を問題にせず全体の流れに目を向けると、花巻に帰省した修羅状態、トシの亡くなつた地獄状態、農学校教師として平穏な日々を過ごす人の状態、そこには十界を揺れ動く姿がある。つまり全体を見れば宗教文学である。

八月四日(火) 銀河鉄道の夜
分銅惇作氏の「宮沢賢治の文学と法華経」によると、全国の大学の文学部の卒業論文で一番多いのは宮沢賢治ださうだ。これは昭和五十六年の話で映画「銀河鉄道の夜」は同六十年だから、松本 零士「銀河鉄道999」の影響である。銀河鉄道の夜は、もし生前に出版されてゐれば「雨ニモマケズ」と並んで宮沢賢治を有名にしただらう。そして「雨ニモマケズ」と並び宗教性の高い作品である。
銀河鉄道は北十字の少し手前の銀河ステーションに始まつて、南十字の少し先の石炭袋で終る。そこには他宗教への気遣ひが伺へる。法華文学とは宗教文学のことだつた。一方で高知尾智耀が賢治に勧めた法華文学について云へば、賢治は布教を目的とせず法楽を目的とした。つまり法華経に出てくる逸話や原理(十界、不軽菩薩など)を題材にした。例へば歴史文学を著す人が、忠臣蔵を題材にしたからと云つて、読者に布教して討ち入りに参加させようとする訳ではない。それと同じである。或いは法華文学とは菩薩の心であり、菩薩の心は全宗教に共通である。(完)


「宮沢賢治15」、大乗仏教(日蓮系)その二十二
「宮沢賢治17」、大乗仏教(日蓮系)その二十四

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