七百四(その一)、1.「X経と作家Xの時代」「戦後の昭和」「平成時代」の違ひ、2.池上本門寺、桐谷征一氏「作家Xと一緒にX経を楽しもう」

平成二十七乙未
五月十八日(月) 作家X特集を再開した理由
僧Xの仏教は飢饉疫病など三災七難への対策だから、世の中に広めなければならない性質のものである。しかし運動には勢ひが要る。天文法華の乱までと、明治から昭和初期に掛けて国柱会などが活躍した時代と、戦後のXX会が急成長した時代は勢ひがあつた。無くなつて四十五年を経過するが今後取り戻す気配はない。このまま僧Xを嘘つき予言者にするか、或いは鎌倉時代の飢饉疫病などの対策としての一つの学派として他の仏教と調和させるしかない。
だから僧Xを嘘つきにしないために他の仏教との調和を提案し、僧X系からは手を引き一年半を経過した。或る僧侶から電話があり別の僧侶でお会式に作家Xの法要をする人がゐるといふ。といふことで作家Xを再度特集することにした。たまたま昨日のNHKこころの時代は最後のほうで作家Xに触れたので、これは特集を組まなくてはといふ気になつた。

五月十九日(火) 石原莞爾を含めると四つの時代に
僧Xの仏教が広まつた時代に天文法華の乱を入れたのは、石原莞爾説である。田中智学の著書も前に一通り読んだがそのように書いたものに出会はなかつたように思ふ。或いは機関紙か講演で語つたことがあるかも知れない。私は石原莞爾の著書で知つたから石原莞爾説としてきた。
といふことで石原莞爾の終戦直後の発言を加へた四つの時代で、共産主義の評価を見よう。作家Xは社会主義政党とは関係が深かつたが共産主義には批判的だつた。これは皇帝暗殺、他の社会主義政党弾圧の時代だから当然である。終戦直後の石原莞爾は共産主義に好意的である。これは西洋列強の帝国主義に対抗する勢力だからこれも当然である。私が共産主義を見るときは昭和四十年代のベトナム戦争の時代で見るから、私も共産主義に好意的である。欧米と共産主義の対決は、化石燃料大量消費とアジアの対決でもあつた。非同盟諸国は反西洋の傾向が強く国内はソ連識の社会主義の国も多かつた。日本社会党が中立を掲げたのも当然であつた。

五月二十日(水) 本来は三つの時代
石原莞爾に言及したため四つの時代になつたが、今回は三つの時代について述べる予定だつた。作家Xの時代は国柱会など僧X系が延びた時代だつた。田中智学の死後、国柱会はその配下の立憲養成会、国体学会など各組織が私の知る範囲で六つに分れ弱体化した。石原莞爾系の精華会もその一つである。
戦後はXX会が日本全体に布教する勢ひだつたが、折伏大行進を昭和四五年一月二八日に中止した。XX会はX寺系の信徒団体で布教することだけが目的である。だから信者はX寺系の末寺に所属させ広宣流布(布教が完成したとき)の暁には解散するはずだつた。ところが信者が三分の一になつたときが広宣流布だと目標を下げ、それでも不可能になると今度は既に広宣流布が達成されたと言ひ始めた。これはX寺の二代前の貫首の妻帯準僧侶Xも言つたからXX会だけが悪い訳ではない。

五月二十一日(木) 三つ目の時代の前半
XX会が折伏大行進を中止したとき、社会党や共産党は都市部ではかなり人気があつた。何しろベトナム戦争がまだ続いた時代である。社会党と共産党は社会主義、民社党は民主社会主義、公明党は国立戒壇を放棄して人間性社会主義、自民党は自主憲法と、いづれもマッカーサの意図した属領とは別の国造りを目指した。
ところが昭和四五年に国立戒壇を放棄した公明党が民社党といつしよになつて社会党の現実化を画策し始めた。社会党の右派化ならよい。それは民社党だからである。社会党の現実化とは、結局は村山富市以降の内心は拝米のくせに平和だの護憲を叫び米英仏の基準で西洋列強の帝国主義支配は無視して日本の朝鮮半島併合中国権益化を批判するといふとんでもない路線である。自民党も内部に拝米や新自由主義が多くなつた。多くの国民が石原元都知事や橋下前府知事現市長に期待するようになるのは当然である。
私は二十歳になり始めての選挙では民社党に投票した。民社党は大企業労組の影響を受けるから、その後は共産党か社会党左派に投票することが多かつた。当時の埼玉県知事は社共推薦の畑和だつたからこれが当時の多くの県民の声だつた。

五月二十二日(金) 本格的な三つ目の時代に突入
昭和五十年のベトナム戦争勝利は、共産主義の頂点だつた。これ以降、共産主義は下り坂を転落し続けた。ポルポル、文化大革命の失敗、そしてソ連崩壊である。日本でも革新知事市長の人気が低下し、総評が解体し、本格的に三つ目の時代に突入した。
三つ目の時代は閉塞感が著しい。ばら色の未来がない。拝米と新自由主義が自民党とシロアリ民主党に入り込み、社会破壊西洋崇拝反日勢力がシロアリ民主党と社民党に入り込んだ。だから国民の期待は石原元都知事や橋下前大阪府知事現市長に向つた。この国民の期待を国の独立といふ正しい方向に誘導すべきだ。間違つてもアメリカの属領化を更に進めたり西洋化した視線で他のアジア各国を見下す方向にしてはいけない。
今こそ石原莞爾や作家Xの思想が生きる時代である。

五月二十四日(日) 桐谷征一氏「作家Xと一緒にX経を楽しもう」を聴く
昨日は午後二時から池上本門寺の朗子会館で桐谷征一氏「作家Xと一緒にX経を楽しもう」があり聴きに行つた。桐谷師とお呼びしたほうがよいかとも思つたが、法衣の下にネクタイが見えたのと、御自身の作られたプリントの肩書きが「仏教学者、作家X研究者、文博」とあつたので、学者の講演として拝聴した。因みに朗子会館にあつた別のパンフレットでは「法華塾運営委員、東京都本能寺前住職、KJ法公認インストラク ター、池上本門寺にて仏教講座〜作家Xと一緒にX経を楽しもう〜を担当」とある。
今回は第八回でプリントによると
私は、作家XのX経信仰がいかにそれが本物であって、奥の深いものだったかを語りたいのです。前回から、作家XがこれぞX経信仰の肝心要(かなめ)とし心酔した僧X聖人の大曼荼羅について学んでいます。

として話が始まつた。我々は本尊を語らなくてはいけない、作家Xは童話や詩に何らかの形で本尊を語ろうとしてゐた。ご本尊研究の方向として
イ、現存の遺品と勧請形式による本尊論(木像か大曼荼羅か、人本尊か法本尊か、一尊四士か一塔両尊四士か)
ロ、ご遺文の分析による本尊論(観心本尊抄、日女御前御返事など)
ハ、大曼荼羅遺品の蒐集と分類(山中喜八ほか)など
ニ、大曼荼羅遺品による信仰実体の研究(中尾堯ほか)など
ホ、桐谷は大曼荼羅遺品の総合的観察、研究の立場に立脚するとともに、就中、従来の研究の視点には欠落した「図」としての大曼荼羅解読の必要性を主張。


とある。このうちホ、について作家Xはそのことに気付いてゐたといふ。ここから先の講演が楽しみである。<おまんだら>(大曼荼羅本尊の愛称として)をくわしく観察してみよう!では十項目が挙げてある。そのうちの
(四)なぜ、「お題目」はつねに中央が定位置なのか?
(五)なぜ、<おまんだら>には「板曼荼羅」がないのか?
(六)なぜ、ことさらに「不動・愛染」なのか?


これらについて次の講演があつた。
僧X聖人は図ス、図ス一と述べられた。
ここにゐる五十人にそれぞれ自分の本尊がある。僧X聖人の本尊におなじものはない。作家Xは手帳に五つの本尊を書いた。題目を一番左に書き僧X聖人も書いてないものが一つある。山川智応は本尊を研究した。作家Xも学びいろいろ見ただらう。
立体だから左右が逆や掛かれてゐるものが違ふものもある。
「不動・愛染」は真言密教の本尊。真言宗の告げ口で辰ノ口の法難と佐渡流罪になつた。ヘーゲルの正反合の止揚をX経では開会といふ。縁起でいろいろな縁に関係。大日如来が書かれた本尊もある。
佐渡始顕の本尊は身延にあつたが、明治八年の家事で燃えてしまつた。佐渡始顕の本尊と同時期に観心本尊抄を書き富木常忍に送つた。
川喜多二郎のKJ法で考へるとき使ふのが図。
曼荼羅は以心伝心

講演の最後の質問の時間に私は、作家Xの本尊は佐渡始顕の本尊を田中智学が書写したもので題目の下に僧X在御判とあるが、身延にあつた佐渡始顕の本尊を書写されたものにも僧X在御判とあつたのかを質問した。桐谷氏は会場の参加者のほとんどは池上本門寺系統の信者のため、まづ僧X在御判が僧△の系統で用ひて、池上本門寺の日朗門下では書写した僧の日号を書くことを説明され、これは己心の本尊と説明された。私はこの書写の仕方にも賛成である。僧△以外の門流は自己の日号を書くといふ伝統を七百数十年続けたのだから、それを尊重すべきだ。
私は再質問で見延の佐渡始顕を書写しそれを再書写したものが横浜の寺院にあり、これには僧X在御判と書かれてゐたのではと聞いたが、これは御存知ではないようだつた。私はX宗では北山本門寺系の結社の信徒だからこの質問は的外れではない。

五月二十四日(日)その二 池上本門寺
今回のシリーズは池上本門寺の「聴けばわかる仏教講座」の一環として行はれてゐる。まづ参加者全員で勤行が行はれた。開経偈、自我偈、諸法実相抄拝読、唱題、宝塔偈、おつとめ回向文、四誓と行はれた。このうちおつとめ回向文では自分の家の先祖代々の部分が、講座参加者先祖代々に代はり、二回目に出てきたときは本日参加に代はり更に作家Xの名も追加された。
私はX宗の勤行は慣れてないから間違へることもあつた。かつて保田妙本寺系の末寺のうち宮崎県の寺院群の多くがX寺系に移つた。そのときX宗に残留した寺院がX宗に対して、X寺とその信徒団体のXX会との対決を主張したがX宗の宗務院が動かないためX宗を離脱し大X宗を結成したことがあつた。今から二十五年ほど前に大X宗がX宗に帰一した。そのときの様子を伝へる当時のX宗新聞に、大X宗の信徒にはX宗式の勤行に戸惑ふこともあり、とあつたことを突如思ひ出した。私の本日の勤行もそれと同じだからである。
講座が終つたあと、時間があつたので本門寺の裏に出た。西馬込駅まで歩き地下鉄の馬込工場跡地(現、立正大学付属中学高校)までの地下からのトンネル跡と線路跡を見たあと、馬込検車場の上を通る歩道橋を歩き、偶然留まつてゐた機関車を見てから本門寺に戻つた。

五月二十四日(日)その三 X寺と北山本門寺
今回のご本尊の講演で思ひ出したことがある。X寺の二十六世日寛は天台大師と伝教大師に「南無」を付けない。六十六世妻帯準僧侶Xも同じく付けない。歴代で付けないのは私の知る限りこの二名だけである。僧Xが本尊の天台大師と伝教大師に南無を付けなかつたのは私の知る限り文永十一年の一体だけである。日寛はX寺の教学を独自のものに変へた張本人として他門流からは嫌はれてゐる。田中智学がX寺教学に出会つたとき、これは駄目だと判断したのは、(1)日寛の教学、(2)戒壇板曼荼羅絶対論、(3)貫首絶対論である。実は私もこの三つは後世の偽作だと思つてゐた。ただ私は(1)'日寛の教学は造仏論がX寺系に広まつたときの反論手段、(2)'戒壇板曼荼羅は戒壇といふ一機一縁の本尊、(3)'貫首は宗内の議論がまとまらない非常事態での決裁者であり、礼儀として本尊書写は最高位の僧にお願ひする古来の習慣、として解決できると思つた。田中智学はX寺とは法論を行ひ、しかし僧△の教学には新鮮さを感じて北山本門寺とは接触した。富士戒壇論、僧X在御判、北山本門寺での夏季講習会はその現れである。
X寺の妻帯準僧侶XはXX会三代目会長布教隊長X氏と二人三脚で伝統破壊を進めた。私が伝統破壊と断定する根拠は管長の権限を独裁にまで高めたことだが、天台大師と伝教大師に「南無」を付けないことからもこれを裏付けることができる。


「作家X9」へ 「作家X11」へ

大乗仏教(僧X系)その十六
大乗仏教(僧X系)その十八

メニューへ戻る 前へ 次へ