五百七十、1.マルクス主義者と僧X信者が陥る欠点(社会を壊してはいけない)、2.上野千鶴子批判(その四)
平成二十六甲午
五月十三日(火)「悲惨な時代だから対策を立てた」
僧Xの時代は飢饉疫病内乱外冦の時代だつた。仏教各派があるのにこの悲惨な状況では仏教が悪者になつてしまふ。だから既成宗派を批判した。マルクスの時代は従来の文化が崩壊し生産体系も生活も崩壊し労働者は悲惨な状態だつた。だからマルクスは弁証法的唯物論を考案した。
僧Xもマルクスも崩壊した社会への対策を考へ出したものだが、今の崩壊してゐない時代にあつて他宗攻撃や唯物論だけを真似すると社会が破壊する。それが社会主義や安保条約解消を放棄したあとの旧革新勢力が振はない理由である。また公明党やシロアリ民主党内の旧社会党ゴミ溜め議員が組織票以外を獲得できない理由である。私でさへ村山富市以後は共産党、社民党、民主党には投票しない。唯一投票したのがシロアリ化する以前の民主党が与野党逆転したとき一回である。
五月十五日(木)「他宗攻撃や唯物論が社会を破壊する理由」
街角にお地蔵さんがある。或いは古い石碑がある。多くの人は心が安らぐと感じる。最近は駅前広場に西洋風の彫刻が飾つてある。彫刻が素晴らしいものなら感心することはあるかも知れない。しかし心が安らぐことはない。それは彫刻が我々の生活とは無縁だからである。西洋彫刻として感心しても生活の延長として感心することはないからである。
旧革新勢力はお地蔵さんや古い石碑は文化財として保存すべきだくらいの感覚で無関心だつた。公明党も他宗のものは無視するから無関心だつた。ところがマッカーサの偏向教育が浸透してくると、宗教に関係する物は駄目、古いものは駄目、日本の物は駄目といふ主張が出てきて、いつの間にか社共勢力も公明党もこれに同調するようになつた。
五月十七日(土)「良心はどこから発生するか」
ベトナム戦争の当時、共産主義者は良心的だつた。今思へばそれはベトナムだけの話でそれ以外の国は駄目だつたが。ラオスとキューバはまともかも知れない。
少なくとも日本共産党や社会党左派は良心的だと思ふ。十五年くらい前まではまださう信じた。共産主義者ばかりか公明党も良心的だといふ意識はあつた。今はさういふ感覚はない。共産主義や広宣流布が不可能なのに組織の既得権で活動するからである。今では保守主義の人、例へば正字体で柔道師範と書かれた家や正字体の漢詩の額が掲げられた家は安心といふ感覚はある。
権力を握るとほとんどの人は堕落する。それは共産党政権も例外ではなかつた。マルクスは弁証法的唯物論で防げると考へた。しかしその後の歴史を見て不可能なことが判明した。堕落を防ぐ一つの方法は戒律である。しかし日本は神仏分離してしまつたし江戸時代の仏教保護は逆に仏教を堕落させたから寺社が国民に戒律を説くことは不可能である。日本で良心を発生させるのは社会慣習しかない。
五月二十日(火)「弁証法的唯物論の本質と上野千鶴子」
弁証法的唯物論の本質が何かといふことについては二つが考へられる。一つは生産力が思考の根源でそれにより私心を克服するといふものである。二つ目は世の中は階級闘争の歴史だといふものである。
私は前者だと確信する。それは二つのグループの対立で一方が完全に正しいのではなく両者が対立することで新たな着地点に至る弁証法そのものの原理による。もし後者なら対立法的唯物論でなければならないからだ。
上野千鶴子は後者だと考へた。しかもマルクスは男女問題を言つてゐないと勝手に解釈しマルクスを超えたつもりで男女対立を煽る言動を繰り返した。かつて男が総合職、女が一般職の時代に特に女性の側から不満が多かつた訳ではない。今は男女とも総合職に応募できるようになつたが、女が総合職に殺到したといふ話は聞かない。
生涯独身だつた上野千鶴子が、自分とは無関係の結婚をする普通の女性を勝手に自分と同じ種類に洗脳しようとする実に悪質な主張である。
五月二十一日(水)「習慣と悪習」
男が総合職、女が一般職でほとんどの人が文句を言はなかつたから、まづは国民がそれを受け容れたといつてよい。しかしそれが良習とは限らない。例へば長時間残業やサービス残業は国民が受け容れても悪習である。失業者が存在するのだから残業は法律で禁止してでも失業者に仕事を回すべきだ。なぜ長時間残業やサービス残業があるかといへば社内に出世競争があるからだ。企業の役職は責任職である。ところが大企業では序列職である。同期に遅れるな、となる。だから長時間残業でもサービス残業でもこなす。
総合職と一般職といふのも企業が勝手に作つたものだ。労働法制から見れば労働者しかない。総合職を女性に広げるのではなくそもそも総合職だの一般職だのといふ区別をなくすべきだ。
かつては家内労働だつたから個人商店でできることは個人商店に任せるような経済にする方法も正論である。このとき注意すべきは現制度で個人商店に任せてはいけない。偽装雇用になるからだ。なぜかつては個人商店が中心で今は雇用が中心なのかその経済制度の差異を調査し、自然に個人商店が普通の社会にすることが真の男女平等、正しい男女分業に繋がる。
なをここで個人商店といふのは個人事業のことである。しかしIT業界で個人事業主といふのは偽装雇用の事である。そのため個人商店を用いた。
五月二十四日(土)「現今の婦人運動の誤り」
世の中には四種類の人間がゐる。良い男、良い女、悪い男、悪い女である。上野千鶴子は悪い男を基準に男女全体の対立を煽り社会を破壊する。だから極めて悪質である。勿論今の世の中は西洋文明の影響を過大に受け、個人商店から雇用に変化した。大企業の男は出世競争といふ高給奴隷であり、女は補助職であり、これが経常収支の黒字を生み円高を生み地元産業を圧迫する。だから雇用の男女平等で奴隷制度を破壊する事は社会の役に立ちよいことである。
ところが日本の女性運動は上層部の男女平等を狙ひこれはよくない。資本主義にあつては平等はあり得ない。社長の親戚だ、旧友だといふだけで取締役になつたり、幾ら仕事に頑張つても倒産することもある。だから上層部の人数の男女平等を狙ふのではなく労働者として一生勤務してきちんと生活できる制度を目指すべきだ。公務員や政府の保護下にある産業、競争のない産業に限つて管理職の男女比率だの国会議員の男女比率だのと叫ぶが、大多数であるところの最下層の地位向上を図る運動が正常であり、ここでマルクスに回帰することができる。いずれにせよ上野千鶴子のような社会を破壊する邪悪な考へとは縁を切り広範な国民の支持を集めるべきだ。(完)
(國の獨立と社會主義と民主主義、その百四)へ
(國の獨立と社會主義と民主主義、その百六)へ
大乗仏教(僧X系)その十二
大乗仏教(僧X系)その十四
マルクス主義フェミニズムへ
(その五)へ
メニューへ戻る
前へ
次へ