五百六十四、心を濁らせる書籍(マルクス没後の論客、特にマルクス主義フェミニズム)

平成二十六甲午
四月二十八日(月)「劇伴を聴きたくなつた理由」
昨日「あまちゃん」の劇伴を突然聴きたくなつた。それには二つの理由がある。
まづ岩手県内の大学を今春卒業した親戚一家が昨日泊まりに来た。同窓生のなかには就職がなかなか決まらず琥珀の販売の仕事に就いた人もゐるさうだ。どんな職業にも貴賎はない。しかし琥珀の販売だと大学で学んだ知識が活用できないかも知れない。琥珀といへば「あまちゃん」に登場する琥珀の勉さんを思ひ出す。駅長、副駅長、観光協会とアクの強い三人を中和するために勉さんは貴重な存在だつた。
それにしても仕事が大都市に集中しない政策が必要である。ところが安倍は山口県出身のくせに逆ばかりやる。菅と同じである。しかも安倍はニセ労組シロアリ連合のメーデーに出席した。シロアリ連合は大企業、公務員の組合員がほとんどである。安倍はこれらの連中だけが可能な賃上げ要請をした。そのような安倍が昨日岩手県野田村といふ昨年の前半に大人気となつた朝のテレビ小説「あまちゃん」の沿線を訪問した。うそつき増税を容認した男である。岩手県野田村ではなく嘘付県中曽根村、菅村、野田村を訪問したらどうだ。

理由は以上の二つだが更にもう一つあつた。一昨日まで上野千鶴子の書籍を読んで心が汚濁した。汚濁で意味が通じないならストレスが溜まつた。その回復に劇伴を聴きたくなつた。上野の書籍は男女対立を煽るだけで世の中を悪くする。男女を問はずあのような本を読んではいけない。

四月二十九日(火)「マルクス以降の著作」
マルクスの著作は一般の人に向けたものだから同意できる部分がほとんどである。しかしマルクス以降の論客は自身がマルクス主義者であるばかりかマルクス主義者向けに書くから、一般の人が読むと心が汚濁する。或いはストレスが溜まる。
それでも米ソ冷戦時代には世界の1/3が共産主義国であり、特に民族解放戦線でアジアでは人気があつた。背景に反米反欧があることを見逃してはいけない。社会党や共産党に人気があつたのもこれが理由であつた。
スターリンの粛清が明らかになりソ連型は人気がなくなつた。毛沢東の文化大革命に人気が集まつたがその実態が明らかになるとやはり人気は急落した。そしてポルポトの出現である。この時点で共産主義は既に敗北してゐた。
だからマルクスより後の著書は読まないほうがよい。唯一の例外はトロツキーである。レーニンから時として離れスターリンの時代には迫害を受けた。だからトロツキーの著作には理想主義の香りがする。

ちなみにエンゲルスとトロツキーの著作には将来フェミニストが引用するであらう文章が少し存在する。まづあの当時は労働者の悲惨な生活を解消することが目的だからマルクスに男女役割分担の主張がないのは当り前である。上野千鶴子がそのことを批判するのは筋違ひである。その一方で機械化が進めば男女で仕事を同じに負担できるといふ前提で男女役割分担主張がエンゲルスとトロツキーに少しある。その場合それがどういふ影響を社会に及ぼすかは後の世代が考察すべきでそのことへの言及はない。そこまで考へる必要がある。

四月三十日(水)「マルクス主義フェミニズムの実態」
最近マルクス主義フェミニズムを批判したばかりなので詳細は繰り返さないが、世の中で多くの家庭はうまく行つてゐる。うまく行かない家庭は少数だしその場合に夫に問題がある場合と妻に問題がある場合がある。
うまく行かない家庭が少数なのに無理やり男女対立を社会全体に拡大しようとする悪質な主張がマルクス主義フェミニズムである。書籍を読んでも得るところが何もない。心が汚濁するだけである。

五月一日(木)「社会民主主義」
社会民主主義はソ連型の共産主義への対案として西欧で出てきたもので、西欧に於いては存在価値がある。しかしアジアで真似をするとうまく行かない。だから日本では社会党が共産主義に近付いたし、中国、北朝鮮、ベトナム、ラオス、カンボジアでは共産主義政権になつた。ミャンマー、スリランカでは国名に社会主義が入り仏教的社会主義国だつた。
日本でうまく行かない理由は西欧猿真似になるからだ。各国には各国の事情がある。西欧の職能別労組を真似するなら賛成である。それをせず死刑廃止だのと表面だけ真似しようとするから国民の支持が集まらない。
西欧の初期の社会民主主義は参考になるかも知れない。しかしその後と日本の社会民主主義は役に立たない。心が汚濁するだけである。

五月三日(土)「個人主義と集団主義」
マルクスの目指すものは集団主義である。日本では国民の気質が集団志向だから集団から外れたことはやり難いところがあり、集団主義を目指すと窮屈になる。しかし個人主義や自由主義は日本では自分勝手、新自由主義の意味に取られ、そればかりか世界がアメリカの影響で新自由主義の傾向を見せるようになつた。
上野千鶴子や左翼崩れリベラルの人たちはまさにこの個人主義であり、だから世の中を良くしようといふ言論がまつたくない。だから読むと心が汚濁する。(完)


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