五百七十三、萱野稔人氏著「ナショナリズムは悪なのか」一割賛成、三割要補足、六割反対(その一)

平成二十六甲午
五月十九日(月)「はじめに」を読んだ感想
萱野稔人氏著「ナショナリズムは悪なのか」は次の「はしがき」で始まる。
日本の人文思想の世界に少しでも触れたことのある人にとって、ナショナリズム批判というのはひじょうに見慣れた光景だ。どうやったらここまでみんなの意見が一致するのかと驚いてしまうぐらい、誰もが「ナショナリズムは悪だ」という前提で議論をくみたてている。

そして次の記述もある。
・私は大学卒業後しばらくしてフランスの大学院に進学した。そこで驚いたのは、フランスの哲学史送会ではナショナリズム批判が一つのテーマとしてはほとんどなされていないということだ。ナショナリズムという言葉が哲学・思想の議論ででてくることすらあまりない。それまで日本の人文思想界の状況を多少なりとも当然視していた私は肩すかしを食らってしまった。
・フランス現代思想は日本におけるナショナリズム批判の強固な思想的基盤にされているのである。しかしそのフランスの哲学思想界ではナショナリズム批判はほとんどなされていないのだ。(中略)ナショナリズム批判がここまで重要な思想的テーマとなること自体、日本におけるナショナルな言論空間に固有なことだといってもいいだろう。
・日本の反ナショナリズムの思潮は少々奇妙に映る。反ナショナリズムは一般には体制批判的でリベラルな知識人の旗印になっている。しかしそれを少し近くでみると、反ナショナリズムという立場そのものが、肥大化した自意識による付和雷同の結果であることがよくわかるのだ。あたかも反ナショナリズムの立場でないとまともな知識人として認められないことをみんな恐れているかのように。


この本の九割は賛成できるだらう。さう思つて本文を読み終へてみると、一割賛成、三割要補足、六割反対だつた。なぜ「はしがき」と本文でこれだけ差異が出たかをこれから考察したい。

五月二十一日(水)アーネスト・ゲルナー
第一章の冒頭からの九ページは国内の労働者の格差を述べたもので私も100%賛成である。ところがその次にアーネスト・ゲルナーの
ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。

を引用し、これ以降この定義を常に参照するといふ。この定義には100%反対である。まづ民族といふ言葉は西洋野蛮人の考へたものである。地域は民族といふデジタル単位に分割できるものではないからだ。次に政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないといふのは第一次世界大戦後に戦勝国側が敗戦国側を弱体化させるための口実であり、また現在でもスイス、ベルギーを始め世界には複数民族の国があるから一概に政治的な単位と民族的な単位が一致しなければいけないものではない。ちなみに第一次世界大戦は帝国主義どうしの戦争であり戦勝国側と敗戦国側のどちらが正しいといふことはない。

五月二十二日(木)諸悪の根源は偏向マスコミ
私がナショナリズムを肯定するのは、基本的に「国家は国民のために存在すべきであり、国民の生活を保障すべきである」と考えるところまでだ。

ここまで私は100%賛成である。このあと萱野氏は非日本人を差別してはいけないと主張する。私は最近の一部日本人の反中反韓、更には東南アジアやアラブへの欧米視線での偉さうに民主主義だの自由だのを叫ぶ主張に苦々しく思つたから、この部分には140%賛成であると言ひたかつたが実際は50%賛成に留まる。それは萱野氏が
もしナショナリズムが「日本人」というアイデンティティのシェーマ(図式)を図式化させて、「非日本人」を差別したり「日本的でないもの」を排除しようとするなら、私はそのナショナリズムを明確に否定する。

私が賛成なのは「非日本人」を差別の部分があるからだ。それ以外は反対である。まづシェーマ(図式)とはいつたい何だ。最初から図式といへばよいではないか。私はシェーマなる単語は知らない。たぶん「全体構造の概略」くらいの意味だらうと思つて英和辞書を調べるとかなり近かつた。英語にはシェーマなる単語は無いがスキーマはありこのフランス語或いはドイツ語読みがシェーマであらう。
しかしこれは微細な問題である。それより「日本的でないもの」を排除しようとするならには絶対に反対である。まづ日本的でないものを排除しようとしたら電気もガスも水道もバスも鉄道も使へない。そんな人はゐない。一方で過度に流入した西洋文化によつて国内は大変な混乱を、短期で見ればプラザ合以降意或いは米ソ冷戦終結以降、中期で見れば終戦以降、長期で見れば黒船が現れて以降、ずつと続いてきた。
多くの人は西洋猿真似が生活を破壊することに気付いてゐる。それなのに「日本的でないもの」を排除しようとするならと主張することには絶対に反対である。物事には限度がある。必要以上に西洋、特に米英の猿真似が続けばこれに反対するのは国民心情として当然である。

五月二十三日(金)リベラル知識人は非道徳で偽善で、そこに清潔さはまつたくない
一般に、反ナショナリズムをかかげるリベラル知識人たちは、政治を論じているようにみえて、じつは政治よりも道徳を上に置いている。そこでは、ナショナリズムがもつ社会的・政治的な力はまったく分析されることなく、ただ「他者性を抑圧する」という道徳的な理由からのみナショナリズムが批判されるのだ。
その結果、彼らにとって最大の思想的テーマは、ナショナリズムという「絶対的な悪(とされるもの)」からいかに身を引き離し、みずからの立場を清廉潔白にするか、ということになる。まさに現代のピューリタニズムだ。


リベラル知識人は批判対象である。それなのに道徳だ清廉潔白だと美辞を用いるのは誉め過ぎどころか盗人に追ひ銭である。丸山真男に代表されるリベラル知識人は七十年前の敗戦といふ衝撃で拝米になつた連中とその後継であり、文化を無視するから唯物論であり、自由が達成された世の中で自由を叫び、多数決の世の中で民主主義を叫ぶ偽善者である。徳川幕府の時代に自由と民主主義を叫ぶなら偉い。今の世で叫ぶなら偽善者であり、しかも欧米の猿真似だから無能である。世の中の現象に対処できないし欧米より一周遅れるから先の大戦のような惨事になる。そんな連中に美辞を用いてはいけない。

五月二十四日(土)悪いナショナリズムと善いナショナリズムは存在する
ナショナリズムが排外主義へと向かわないようにするためには、(中略)ナショナリズムがアイデンティティのシェーマを活性化させてしまう社会的状況をナショナルな経済・社会政策によって除去することで、ナショナリズムそのものの性格を変えていかなくてはならない。

ここまでは私も賛成である。反中反韓のヘイトスピーチは絶対に反対である。だからこれらの人たちのナショナリズムは変へる必要がある。賛成ではあるが補足が必要である。なぜナショナルな経済・社会政策を取れないかといへば、欧米の猿真似だからだ。特にアメリカは人口密度が定常に達しない非平衡の国だからアメリカの真似は絶対にいけない。欧州の真似ならよいかといへば、欧州と思考形態を完全に同一化しない限り国内の生活を破壊する。国民はそのことが直感で判る。だから東京では石原氏、大阪では橋下氏が圧勝する。かつては反米反西洋といふことで美濃部氏や蜷川氏が圧勝した。ベトナムでも共産党が圧勝した。
明治維新以降の西洋文明が大量に流入する非欧米地域にあつては、経済や政治だけを見ては駄目である。私が常に文化を主張し、文化を無視することが唯物論だと主張するのはここにある。だから萱野氏が次に
この点で、ナショナリズムに依拠する私の立場は、「悪いナショナリズム」に対して「善いナショナリズム」があるという立場とは根本的に異なる。
後者の立場というのは基本的に、第三世界の抵抗のナショナリズムはよくて、帝国主義による支配のナショナリズムはよくない、というそれ自体道徳的な区別にもとづいているからだ。


と主張するが、第三世界のナショナリズムは正しい。それは世界に撒き散らかされる西洋文明に対して自分たちの生活、更には地球温暖化時代の現代にあつては地球を守らうとするものだからだ。文化を考へないから萱野氏は第三世界のナショナリズムの正しさが判らない。

五月二十五日(日)一九六〇年
萱野氏は第二章でゲルナーの定義とは別のイギリスのエリ・ケドゥーリーの定義をまづ引用する。
ケドゥーリーの『ナショナリズム』(第一版)は一九六〇年に発刊された。この時期は、植民地がつぎつぎと独立し、さらにファシズムの経験への反省が重なって、欧米の知識人のなかでナショナリズムへの関心が一気に高まっていった時期である。そうした時代のなかでナショナリズムへの関心が一気に高まっていった時期である。(中略)ケドゥーリーの定義を読んでみよう。
ナショナリズムは19世紀初頭にヨーロッパで創りだされた教義である。それは、あくまで自分たちだけの固有の政府を持とうとする(中略)。要するにこの教義によると、人類は本来的にもろもろの民族にわかれており(以下略)


この定義には絶対に反対である。民族なる語も近代に出てきたものだ。それなのに「本来的にもろもろの民族にわかれており」といふと民族対立を煽る。ナショナリズムは一九世紀にヨーロッパで創り出されたのではなく、元々人間に備はる感性である。だから重要である。或いはこの感性は伝統主義乃至は平衡主義でありナショナリズムとは別のものだとしよう。だとすれば一九世紀にヨーロッパで創られたナショナリズムなる主義を信じてはいけない。それなのにそれを信じるのが萱野氏である。
一九六〇年前後のAA諸国の独立こそ健全なナショナリズム、健全な伝統主義であつた。ところが萱野氏は第三世界のナショナリズムに反対しゲルナーやケドゥーリーには賛成する。私と萱野氏は主張が似てゐるように見えて正反対である。

五月二十九日(木)想像の共同体
アンダーソンは『想像の共同体』で、ネーションを「想像の共同体」だとみなした。(中略)この「想像の共同体」という概念が、その書名のインパクトも手伝って、日本の人文思想界では独り歩きしてしまった。(中略)これによって、日本の人文思想界では、ナショナリズムを論じることはすなわち「想像の共同体」について論じることだ、という図式が強固に定着してしまった。ナショナリズム批判において、いかに共同体の呪縛から自由になるか、いかにその想像された虚構性を暴くか、ということばかりが論じられるのはそのためである。

ここまでは萱野氏に100%賛成である。しかし萱野氏は引き続き次のように書く。
この傾向はとどまるところを知らず、さらに国民国家の議論にまで拡大していった。国民国家もまたネーション(国民)と同じように「想像の共同体」だとみなされるようになったのである。
これには反対である。萱野氏は国家についてウェーバーの正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。を引用する。しかし国家とそれ以外をデジタル思考で分類できる訳ではない。かつて東欧ではポーランドやユーゴスラビアのように旧ソ連の衛生国もあれば、ソ連内の各共和国、ロシア共和国内の自治共和国、自治州のようにどれが国家か分別が不可能だつた。ベラルーシとウクライナはソ連の構成国であるとともに国連にも加盟し、今の感覚で見ればベラルーシとウクライナは独立志向で国連に留まつたのだらうと推定するが、ソ連崩壊前の感覚では国連への既得権として加盟を残存させてゐた。だからアメリカが対抗してすべての州を国連に加盟させると発言したことがあつた。
国連が結成された当時は国家とそれ以外(属国、自治領など)は区別できなかつたが国連の歴史がある程度長くなると国連に加盟する或いは加盟しないが同等のものが国家として世界的に認識されるようになつたのではないのか。しかし今でも世界は一律に国家がある訳ではない。日本は社会党が崩壊して以降は完全にアメリカの属国になつてしまつた。
明治維新前の日本を考へると更に判り易い。朝廷、幕府、藩が存在しどれが国家かは区別できない。

六月一日(日)二つの大原則
私のホームページは二つの大原則に貫かれてゐる。
1.共同志向は人間の本能であるし人類永続の唯一の方法である
2.人類の考へられることは限られるから文化や自然を破壊してはいけない
だから萱野氏の次の発言は絶対に反対である。この発言を読んで萱野氏は拝米反日新聞社(自称朝日新聞社)の廻し者かと嫌味を言ひたくなる。
 一部のナショナリストが「われわれ民族は歴史を超えて存続し、文化的同一性を保持してきた」と信じるのとはまったく逆に、ネーションもナショナリズムも歴史的にはひじょうに新しい現象なのだ。

まづ私は「われわれ民族は歴史を超えて存続し、文化的同一性を保持してきた」と主張する人がゐればそれは違ふと説得する。99%の人は話せば理解できると確信する。なぜかといへば民族なる概念は第一次世界大戦戦勝国側野蛮人どもが無理やり考へたことだからだ。だから本来は萱野氏と同じ立場にも係らず萱野氏は続けて次のようにいふ。
彼らが文化の同一性の根拠としてもちだす「伝統」も、ネーションが成立した近代の地点から過去に遡行することで後づけ的に創られた物語にすぎない。ホブズボーズはそれを「創られた伝統」と呼ぶ。

私のホームページの大原則は世間で広く知られてゐる訳ではない。しかしこの程度のことに賛成できない人は社会学者として不適格だし、普通の社会人としても非常識である。西洋において西洋思想を持つのは普通である。しかし非西洋において西洋思想を持つものは社会に有害である。萱野氏もその例外ではなかつた。

六月三日(火)国家の否定や廃棄を主張する者を過大に評価してはいけない
萱野氏の第三章は「国家をなくすことはできるか」である。私の主張を先に述べると国家とは共同志向といふ人間の本能から発生したものである。これで意味が判らなければニホンサルが群れを作ることを考へればよい。しかし人間はニホンサルと異なり権力度に応じて堕落する。だから国家は共同志向の堕落したものと考へるとよい。そこにはシロアリどもが群がる。
マルクスの時代は科学万能の時代だから世の中がすべて科学で一変すると信じた。そして生産の平等こそ堕落を防ぐ方法であり、だから全ての仕事をローテーションさせれば国家は眠るように死滅すると考へた。この当時、他の社会主義者の中には国家の廃止を説く人が多いからマルクスは穏健派であつた。
仕事のローテーションは不可能ではない。僧侶聖職者のように信者の寄進で活動する人は例外として世界全体が社会主義化すれば可能である。或いは国家間が軍事力、経済力、文明力で競争しないのであれば可能である。それなら国家の機能は日本でいへば天皇様といふ権威的機能、最低限の警察機能を除きすべて国民管理に任せられるからである。

萱野氏の第三章を読みまづ気付く事は、国家の否定や廃棄を主張する者を過大に評価してゐる。萱野氏は二つの思考の傾向があるのだといふ。
一つは、政治権力のような汚いものにはかかわりたくないという潔癖主義的な傾向だ。(以下略)
もう一つは、国家とは何か、それはそもそもなくせるものなのか、ということを正面から考えずに、権力はよくないといった道徳的判断を先行させる傾向だ。


彼らは潔癖でも道徳的でもない。単なる西洋かぶれであり、マッカーサの戦後の偏向情報操作に引つ掛かつた人たちであり、反社会リベラル主義者である。
萱野氏は上野千鶴子を取り上げたが、批判すべきは上野の反社会、反道徳、拝西洋リベラルの姿勢である。


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