五百六十二、正信会は分裂してはいけない

平成二十六甲午
四月二十三日(水)「正信会の分裂騒ぎ」
昨年十月日蓮系とは手を切らう。さう思つた。田中智学系で分裂した各団体のうちの一つが昨年の池上本門寺のお会式のときに池上本門寺の正式行事ではないが境内の使用許可を得て講演した。その内容があまりに酷いからである。
思へば日蓮系でまともな人間に会つたことが少ない。これまで数十年で10人くらいだらうか。その理由はご利益信仰だからである。怪しげな健康食品を食すれば長寿になれる。現世利益信仰はそれと同じである。だから心の浄化ができない。
そのような中で正信会は良心的である。その正信会が分裂の危機にある。といふことで今回は正信会の分裂を止める事を目的にした。一般の人は正信会といつても判らない人が多いので説明すると、宗門と創価学会の蜜月時代に創価学会を批判して宗門から除名になつたのが正信会である。当時は僧侶が600名ゐてそのうちの200名が除名になつた。その直前の宗会議員選挙では正信会がほとんどを占めた。その後、創価学会も宗門から除名になつたがそれはかなり後の出来事である。

四月二十六日(土)「二つの伝統」
詳細に調べてみると正信会が分裂に至つたのは一昨年である。さうである以上、元に戻つていがみ合ふよりは、対立せず別々に活動したほうが互いに伸張できる。八本山が分流し全国に布教が進んだのと同じである。出来れば発表会みたいな形で交流だけは続けられるとよい。これも細草壇林と同じである。二派に分裂した理由を探つてみよう。
まづ伝統には二種類がある。長い伝統と昔の伝統である。
大石寺門流では血脈付法の貫首と、戒壇の板本尊を以つて自派の正当を主張した。これが長い伝統である。第二祖日興や第三祖日目の書写した本尊は戒壇の板本尊とは座配が異なるし広宣流布が達成された暁にお祭りするのは本尊の図の如し、つまり造像を認めたともとれる。少なくとも戒壇の本尊絶対思想は見られない。これが昔の伝統である。
正信会は今までの流れの派と統括法人設立派に分かれたが、前者が長い伝統、後者が昔の伝統である。
この問題のきつかけは大石寺六十七世日顕管長(当時は宗務院教学部長)が
戒旦の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。
と語り、それを北海道大布教区長、宗務院参議を務めた高僧が何の疑問も持たずにメモに書いた。宗門から除名になつた正信会が宗門の発言とメモで分裂するのは残念なことだ。この問題は宗門が正常化された後に(おそらくそのような時は来ないが)そのときの貫首と大衆が話し合つて解決するのがよい。

四月二十六日(土)その二「正しいと信じる地点と許容範囲」
一人ひとりの考へには正しいと信じる地点と許容できる範囲がある。例へば私は僧侶は妻帯すべきではないと考へる。これは真宗を除く各宗派は明治維新までの長い間、妻帯しなかつたからである。しかし今では妻帯するのが普通だから妻帯しても別に気にはしない。しかし住職の世襲はやめるべきだ。これが許容範囲である。
大石寺系は今でも世襲ではなく宗務院が住職を任命する。これは大石寺だけではなく身延山を総本山とする日蓮宗もかつては僧侶が全国の寺に任命された。それは石橋湛山が父親に連れられてあちこちの寺院に引つ越したことで判る。しかし今は日蓮宗も移動を止めたらしい。
正信会の「継命」紙に、任命制は僧侶がたくさんゐる場合に可能だが不足のときは世襲制になつてしまふといふ記事が載つてゐた。さうであれば世襲も仕方のないことである。しかし本来は自分の子は弟子にせず別の僧侶に任せる。別の僧侶の子を自分の弟子にする。さういふ工夫は必要である。
以上で判るように私が正しいと考へる地点は僧侶妻帯の禁止である。しかし事情を聞けば許容範囲はどんどん広がる。正信会の僧侶も許容範囲を広げて戒壇の本尊が本物か偽物かではなく、これまでの長い伝統による戒壇の本尊中心を基本にする。しかし別の考へも許容する。その姿勢が大切である。

四月二十七日(日)「反対意見のあるものは伝統にはならない」
反対意見のあるものは長期に続いても伝統にはならない。例へば六十五世堀米日淳が遷化の後に六十六世細井日達は管長の権限を極めて強めた。創価学会が破竹の勢ひで伸びたから反対意見は出し難く、宗会は定員どおりに立候補し無投票の有様だつた。宗務総監は管長が指名し各部長は総監が指名。参議は管長と宗会が半分ずつ任命した。つまり管長の完全独裁である。しかし末寺第二位の蓮華寺と高知の大乗寺が日蓮実宗として独立し、国立戒壇を巡つては松本日仁師が除名、妙信講には解散命令が出されたから六十六世の時代は反対意見のある状態だつた。
正信会と私の意見相違はここにある。六十六世の時代は得度者は全員、管長の弟子にしたり、一般僧侶は棟札を書写できなくなり、そのため塔婆に南無妙法○経ではなく妙法○経と書くのは貫首以外は題目を書けないからだと一般の僧侶が思ひ込むなど伝統破壊が多かつた。

四月二十八日(月)「正信覚醒運動は短くても伝統である」
日淳師の時代に帰る。これなら創価学会や旧妙信講や日蓮実宗を含めて大石寺門流すべてが心を一にすることができる。しかし正信会は日達師の弟子が多いからこの主張には抵抗があらう。
日達師の始めた正信覚醒運動は期間が短くても伝統である。いづれ宗門から独立することを内心は考へた創価学会を含めてすべての僧俗があのとき納得したはずだ。そればかりか正信会は僧籍剥奪(顰斥処分)になつてから数十年運動が続いた。これは立派な伝統である。だとすれば正信隔世運動は伝統があるからまづ日達師の段階に戻る。これだと創価学会が取り残されるから貫首就任直後の段階に戻る。これで皆が同心すべきだ。

四月二十九日(火)「伝統に帰つた日達師、伝統に帰れなかつた日顕師」
日達師はそれまでの伝統を次々に破壊し、その集大成が正本堂である。しかし日達師も正信覚醒運動の起きた晩年には「信は荘厳より起こる」といふ諺を引用し伝統回帰が見られた。
六十七世日顕師は正本堂を破却し伝統建築に建て直した。破却には賛成だが立て直すことには反対である。本来は昭和三十年の奉安殿或いはそれ以前のご宝蔵に戻すべきだつた。しかし堂宇よりもつと重要なことがある。日達師の時代に強められた管長権限を元に戻す必要があつた。しかし日顕師には自分の既得権縮小に繋がるからできなかつた。

四月三十日(水)「日顕師の長所と池田氏の長所」
日顕師の長所は(1)管長になるや伝統回帰の傾向を見せた、(2)漢詩に見られるようにアジア重視、(3)教学と達筆の三つである。短所としては日達師が改変した伝統を建物では回帰したが管長権限を日淳師の時に戻すことはできなかつた。
一方の池田氏ははつきり言つて長所が何もなかつた。しかし大石寺と手を切つた後の創価学会は宗門攻撃において実に魅力的である。正直なところ創価学会に復帰してもよいくらいである。しかし創価学会の活動は宗門攻撃だけではないから復帰することはないが。欠点としては戸田城聖氏のアジア志向に対して池田氏は完全に西洋志向である。私は日本全体がその傾向だといふことで理解しようとするがそれにしても公明党はひど過ぎる。戸田氏が公明党を見たら激怒するだらう。

五月一日(木)「アジア志向、国士訓」
戸田城聖氏のアジア志向は三国志や水滸伝を青年に教へたことに現れてゐる。その一方で大楠公も教へ国士訓を発表し、しかし平和主義である。これこそ正しい平和主義である。
池田氏は西洋志向が強い。私は世代の断絶といふ言ひ方で池田氏批判は避けたが、一つには世の中自体がマッカーサの洗脳のせいで西洋志向になつてしまつたため、池田氏だけを批判するのは正しくないからである。池田氏が西洋志向を明らかにしたのは政教分離のときである。その前は戸田氏に薫陶を受けた幹部が多数ゐて池田氏も戸田氏の路線を引き継いだ。しかし政教分離でこれら幹部を公明党に残し、党と学会の役職兼務を認めないとした。そのため和泉、辻、北條の各(副)理事長、後の総務、更に後の副会長を除いて公明党に取り残されてしまつた。私は池田クーデターだと思つた。今考へると広宣流布に向ふことを停止したことが原因であつた。
日顕師と池田氏を比べれば私は日顕師を絶対に支持する。漢詩、伝統伽藍、達筆。この三つで日顕師の圧勝である。しかし私は宗門を支持したことはない。過去は別の理由(総じては官僚主義、別しては法主論、戒壇本尊論、日寛別格貫首論に反対)だが今は宗門の御書英訳である。

五月二日(金)「宗門の官僚主義と教義の問題」
宗門を官僚主義と断定する最大の理由は僧階である。下は権訓導から上は大僧正に至るまで沢山の僧階があり、このうち上から五番目の大僧都までは完全な年功序列である。功績のある場合は年限を半減することが宗制宗規に規定するが逆に功績があつても数年短縮するだけでより年功序列を強める。だつたら一層のこと出家の年月で順番を決めるだけのほうがよい。後者なら単に順番だからである。
教義について建前は第四世から後の貫首は同等でありながら、実際は第九世日有、第二十六世日寛の著作を宗制宗規で特別扱ひする。このうち日寛は要法寺の造像論が大石寺に入り込んだときの法論用でありこれ以降、要法寺では造像撤廃が進んだ。しかし年月が経ち他門流の日寛への反論或いは幕府の異流儀取締りで公表を憚るようになつた。貫首あるいは高僧しか読むことができなくなつた。貫首しか法門を理解できないとする神話はこのとき生まれたものだらう。しかし教義の検討は将来の問題である。御隠尊猊下(隠居した貫首)が何人もゐて管長は宗議会或いは参議会で決める日淳師の時代に戻れば宗門は十分に永続可能であつた。

五月四日(日)「正信会が負けたとき」
日顕師に血脈がある筈がない。それは日号が日慈だつたことに現れてゐる。長年総監を務めこの時は重役に退いた直後の早瀬日慈師と同じ日号ではもし次の貫首になつたとき混乱するからである。しかし日顕師になかつたかと言へば早瀬師と光久師と菅野慈雲師が異議を唱へない以上不明とするしかない。その代り阿部師には宗務の実権を総監に戻してもらふ。さうすればよかつた。
しかし正信会の負けが確定したのは別のときである。阿部師は意見があるならどんどん来てほしいと言つた。ところが正信会は一人も行かなかつた。このとき負けが確定した。宗内の支持も失つた。

五月五日(月)「本尊は誰が書写してもよい」
宗制宗規に、本尊を書写した者は顰斥にするとある。私が宗制宗規を見たのは三十四年前でそれ以降は一回も読んだことがない。今でも印象に残つてゐるがこの条文を見て本当は誰が本尊を書写してもよいのだなと判つた。誰が書写してもよいから規則で規定しなくてはならない。
八本山すべての貫首が本尊を書写する。古くは一般の僧侶も書写した。但し日号は本山の歴代に同じ名が出ない。だから一般の僧侶の場合は日号は書かない。ところが日達師が管長になつてから、毎日本尊を拝むのにその本尊を書写する猊下(貫首の尊称)の御指南に従はないのは矛盾だ、本尊は戒壇の大御本尊を書写したもので本尊に書かれた「書写之」の之とは戒壇の大御本尊のことだといふような説が僧侶の法話でさかんに言はれるようになつた。
之とはその本尊のことである。戒壇の大御本尊では絶対にない。だから座配が貫首によつて異なる。特に二十六世日寛師と六十六世日達師は天台大師と伝教大師に「南無」を付けなかつた。

五月十一日(日)「大石寺貫首に全体を統率する権限はなかつた」
第三祖日目が遷化ののち大石寺後継を巡つて日道と日郷の争ひが起きた。北山本門寺では貫首日代と日仙の方便品読不読の論争が起こり、日仙は讃岐に退出し日代も貫首を追放された。もし大石寺貫首が絶対ならこのとき裁定を下す筈だし北山本門寺の貫首任命権を発揮した筈だ。つまり元々大石寺貫首には絶対の権限はなかつた。
破竹の勢ひだつた創価学会も貫首絶対の範疇に留まる限り広宣流布は達成できなかつた。だからと言つて伝統を無視した今のやり方は更に悪い。一旦布教活動を停止した以上、二度と再開はできない。また再開してもいけない。短期で広宣流布が達成できない以上、布教活動は社会に有害だからである。

正信会については大石寺が日淳の時代に戻ることを目標に、それまでは西山本門寺或いは保田妙本寺の末寺となつたらどうか。どちらも一時は大石寺の門流に属したことがある。末寺で抵抗があるなら協力でもよい。正信会の三〇余年は誇るべき伝統だが七百年に比べれば短い。何より今回の分裂が短いことを示した。(完)


大乗仏教(日蓮系)その十一
大乗仏教(日蓮系)その十三

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