二千六百六十四(うた)東京メトロ一日乗車券(本駒込、渋谷、上野動物園、浅草、深川不動尊、東陽町、築地)
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
二月二十四日(月)
本日は、妻が母のデイサービス送り出しと迎へ入れをしてくれた。そのため小生は、東京メトロ一日乗車券六百円(三月十五日から七百円)で出掛けた。先日の頭痛は、パソコンを使ひすぎが原因かも知れないので、出掛けることにした。
一、行く場所を決めた訳では無いので、本駒込で降りて神明町電車庫跡公園で6000型と乙2を見ようと思った。ところが本駒込は、想像した地点よりずっと南側だった。神明町へ行くには、かなり戻らないといけない。そのため、団子坂下へ歩いた。
神明町都電車庫址公園は歩くに遠し空振りとなる
近くに住んでゐたのになぜ間違へるのか、と云はれさうだが、本郷通り沿線は行くことが無い。不忍通りか春日通りを経由するから、本郷と向ヶ丘は盲点だ。
二、団子坂下から地下鉄で渋谷へ行った。これも表参道駅で、千代田線から銀座線に乗り替へるときに間違へて、千代田線を降りて反対側のホームで待ってゐたら反対方向の千代田線が来た、当たり前の話だが。階段を上がって連絡通路を歩いて、銀座線ホームへ行った。銀座線ホームの反対側は、千代田線ではなく、半蔵門線だった。これも六年半前までは、通勤で渋谷を経由したのに間違へた。
東横線が桜木町に乗り入れた時代から渋谷で乗り替へ、まづ横浜手前で地下に潜るやうになった。かなり経ってから代官山でも同じ現象が起きて、地下に潜り行き止まりの終点になった。暫くしてから副都心線が開業し、乗り入れるやうになった。土曜に国会図書館へ行くために、副都心線開業前は、赤坂見附経由で定期券を購入した。そして事実、赤坂見附で乗り替へた。それなのに間違へた。
三、渋谷は高層商用ビルが多くなり、まったく分からなくなった。移転後のハチ公を見たが、撮影者で大混雑だった。西アジア系の女が足を伸ばして引っ掛けようとしてきたが、重心を保ってゐたのでまったく影響しなかった。長居は無用とばかり、上野まで乗った。上野動物園の無料休憩所で持って来た弁当を食べようと云ふ算段である。弁当を家から持って来た理由は、この日はご飯が余る。うまく夕飯で全部使ひ切るために、前は無理して残る分を食べたが、筋肉が高齢化で減った為か、少し余分に食べるとお腹が出る。これは内臓に脂肪が付く現象で、健康に悪い。だから、お昼の弁当に流用した。
地下鉄の上野駅は、動物園への矢印が山下経由で弁天門だ。小生は逆方向の、パンダ陸橋経由で正門から入った。東園の無料休憩所へ行くためである。ところが満席だったので、イソップ橋を渡り、水上動物園へ向かった。
上野動物園は、三連休の最終日なのでかなり混んだ。パンダは60分待ちだ。わざわざ来た人たちのために、いつでも来れる人は混んだ動物に並んではいけない。西園の食堂兼無料休憩所も混んで、屋内は満席だった。屋外は空席があるので、屋外で食べた。外で食べると寒いから、わざわざ年間パスポートのある上野動物園迄来たのに、これではその辺の公園で食べるのと、変はらなかった。不忍池の、蓮の枯れ具合をイソップ橋から観たのはよかった。カワウ島の周りは水面だ。
動物園 西園と呼ぶ本部棟パンダのもりを含めるが 水(すい)上と呼ぶ不忍池
反歌
西園はイソップ橋と弁天橋池の眺めに飽きることなし
(上野動物園その十六)へ
(上野動物園その十八)へ
-----------------------------ここまで(上野動物園その十七)-----------------------------
四、清水観音堂へ寄ったあと、銀座線で浅草へ行った。浅草観音三門の「雷門」の大提灯は、「松下電器」と書かれた部分が貴重である。今は社名が変はった。仲見世は混雑して、歩くのに時間が掛かる。この場合は、店の裏側が空いてゐる、筈だった。今はここも混み、店の裏側の対面にも店がある。和服を着る観光客がちらほら見える。すべて外国人だと思ってゐる人がゐるが、日本語を話す男女もゐた。本堂は寄らず、裏側へ出た。
入谷か押上から地下鉄に乗らうと思ったが、おそらく15分は歩く。この計画は取りやめて再び境内に入り、六角堂、橋などを観た。宝蔵門の左にある大行院は、今でも天台宗と知った。大勢に従はない人や思想は、小生が好むところだ。とは云へ、自分勝手だったり、社会を破壊しようとするものは駄目だ。大行院はこれらとは違ふから、小生の好む側だ。
浅草寺観音堂は観光地脇の諸堂はお寺の伽藍
五、
花やしきの横から飲食街を歩き、地下鉄に乗った。次は、門前仲町で降りた。不動尊へ寄った。旧本堂と会館を廻り、それぞれお賽銭を入れた。本堂は初めて見た。前回来た時は新本堂は無く、会館が出来て間もないころだった。
富岡の不動尊とは不動堂お不動様とも呼ばれるが 路面電車の停留所不動尊前懐かしく今でもその名使ひ続ける
反歌
真言宗智山派にして下町に成田の別院富岡不動
反歌
江戸時代二泊三日の成田でも富岡不動ひと時の旅
--------------------------ここから(モリカケ・・・カルト裏、三百二十三の三)-------------------
六、富岡八幡へ寄ったが、思ひ出すのは前宮司が宮司を殺害した事件だ。だから参詣をせず、本殿を見る事さへせず、単に歩いただけだ。事件の半年後に、富岡八幡友の会なる団体が結成されたらしく、本堂の手前に石碑を建てた。昭和天皇が昭和二十年三月十八日(東京大空襲の八日後)に都内を視察し、富岡八幡にも寄られた。富岡八幡で終戦を決意されたとするが、二つ無理がある。
友の会は、富岡八幡から都内を視察したとあるが、都内を車内から視察したあと、富岡八幡に立ち寄られたのではないか。二つ目に、終戦の五ヶ月前だから、このときに終戦を決意したとは云へない。それでは天皇の真意を知りながら、政府や軍上層部は五ヶ月間無視したことになる。
富岡八幡友の会の呼びかけ人は「加瀬英明、小林祥晃(Dr.コパ)、浜田マキ子、村松えり」とある。このうち浜田マキ子は、衆議院東京一区や都知事選などあちこちの選挙に立候補しまくった。マスコミに取り上げられたい中毒になってしまった、とんでもない目立ちたがり屋である。夫の浜田卓二郎とともに、我が家のすぐ近くに住んでゐた。卓二郎は元衆議院議員で、中選挙区廃止ののちは参議院に転出したが、埼玉県知事選に立候補し落選した。
まだある。発起人は、呼びかけ人四名のほかに、七名が加はる。その一人に「安倍洋子」とある。安倍晋三の母親である。富岡八幡で三人を殺害(一人は自殺)した事件は、神社の自助努力で名誉回復しなくてはいけない。
マキ子らが昭和天皇巻き込(マキ子)みて過去の事件を埋めてはいけない
(モリカケ・・・カルト裏、三百二十三の二)へ
(モリカケ・・・カルト裏、三百二十四の一)へ
--------------------------ここまで(モリカケ・・・カルト裏、三百二十三の三)-------------------
七、地下鉄で東陽町迄乗った。寄席若竹のあったビルを探したが、見つからなかった。家に戻ってから調べると、一階がコンビニに変はったためだった。
------------------------ここから「和歌論」(二百四十三の二)----------------------
若竹は老竹となり伐採か一時思ふに今も竹あり
(3.04追記)推敲前は「一時思ふが今も竹あり」だった。「思ふが」を「思ふも」にしたいが「今も」と同じ助詞が重なるのでしなかった。良寛、万葉集、古今集の本歌取りをするうちに、「が」を避ける傾向が生まれた。
「和歌論」(二百四十三)へ
「和歌論」(二百四十四)へ
------------------------ここまで「和歌論」(二百四十三の二)----------------------
八、茅場町で乗り替へて、築地へ行った。午後四時なので、場外市場は閉店した店が多く、調べると午後三時がセンターの閉店時刻だ。
築地から中央市場移転のち 場外市場飲食のほかに業者や一般に向けた卸しが盛んにて移転の前と変はることなし
反歌
築地には生麦と似て他所からの仕入れに由るも規模桁違ひ
反歌
生麦は早い朝のみ築地では早い朝から十五時過ぎまで
反歌
築地では早い朝には業者向けその後一般来場者へと
勤務先が鶴見に在った時代に、短期間だが自転車で通勤したことがあった。生麦を経由すると、朝八時四十分なので卸売りを終へて既に閉店したか、片付けをほぼ終へる店ばかりだった。
このあと、新富町まで歩き、地下鉄を乗り継いで赤羽岩淵で降りた。そしてJRで帰宅した。家に着いたのは夕方五時十五分だった。
九時間の地下鉄の旅 朝八時家を出た後JR 赤羽岩淵始まりに都内を巡り此処で終へ JRにて家へと戻る
反歌
赤羽の都電終点遥か後赤羽岩淵車激増(終)
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