二千六百六十五(朗詠のうた)本歌取り、新古今集(その一)
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
二月二十六日(水)
巻第一の
今日といへば唐土(二文字で、もろこし)までも行く春を都にのみと思ひけるかな
春が立つ唐土よりの日の名でも其の始まりは大和が早し
すぐ次の
春といへば霞にけりな昨日まで波間に見えし淡路島山
昨日までくっきり見えた淡路島霞の春は嬉しも悲し
次は
風まぜに雪は降りつつしかすがに霞たなびき春は来にけり
時は今は春になりぬとみ雪降る遠き山辺に霞たなびく
雪が降り霞が立つは一つ村冬春共に棲み分け姿
雪降るは遠き山辺に霞立つ此の辺りのみ高さ違ひか
本歌は二首とも万葉集にもある。
岩そそぐ垂氷の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかな
岩の上氷の上に蕨出るここにも冬と春が攻め合ふ
この本歌も万葉集。
なごの海の霞の間(ま)よりながむれば入る日を洗ふ沖つ白波
限り無き海の向かうに入る日は白波よりも見えるは低し
すぐ次の
見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ
夕方は春夏秋がすべてよし冬は寒さが厳しき故に
すぐ次の
霞立つ末の松山ほのぼのと波に離るる横雲の空
果てしなき大海原に立つ波を離れて雲は横へと広し
二月二十八日(金)
巻第二は異変が起きる。本歌取りしたい歌が無い。唯一あったのは、万葉集にも載る
かはづ鳴く神南備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花
電(いなづま)の機(からくり)により初めての河鹿蛙の声は美し
次は巻第三夏歌に入り
早苗取る山田の筧漏りにけり引くしめ縄に露ぞこぼるる
田植ゑ時山に斜めの田の筧漏れてあちこち小さき滝が
次は
小山田に引くしめなはのうちはへて朽ちやしぬらん五月雨の頃
田植ゑ過ぎ五月雨続きしめなはが朽ちるは水が多くて嬉し
次は
庭の面(おも)はまだかわかぬに夕立の空さりげなく澄める月かな
夕立の雲去り日出てさりげなく日入り月見えまたさりげなし
次は
夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声
夕立を下に見下ろす高き山日を物とせず後ろへ隠す
三月一日(土)
「巻第四秋歌 上」に入り
神南備の三室の山の葛かづら裏吹きかへす秋は来にけり
家持が山の葛にて歌を詠む 裏を導く序(ついで)かも 又は秋には陽が弱まるか
反歌
山の木は夏に強きの陽を浴びて秋は弱まり裏返るかも
新古今に家持の歌は感激だ。すぐ次の
いつしかと荻の葉むけの片よりにそそや秋とぞ風も聞こゆる
崇徳院荻の葉むけも家持と同じ昔は皆思ふかも
すぐ次の
この寝ぬる夜の間に秋は来にけらし朝けの風の昨日にも似ぬ
一夜にて秋になるとも幾日(ひ)過ぎ夏来て秋にまた夏が来る
すぐ次の
いつも聞く麓の里と思へども昨日に変る山おろしの風
山おろし明日には止みて夏の日へその次に来る秋の風かも
この先、本歌取りにしたい歌が無くなる。表現が紆余曲折するためだらう。序詞は一つの曲折だが、新古今は曲折の連続だ。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
浦に立つ秋の苫屋は夕暮れに静か寂れの美しさかも
三月二日(日)
「巻第五秋歌 下」に入る。本歌取りしたい歌が無いのは、類似する歌ばかりが続く。取上げたくない歌だが西行の
小山田の庵ちかく鳴く鹿の音に驚かされて驚かすかな
贋法師西へ行けぬは鹿の声驚き怒り驚かすかな
次は
秋田守(も)る仮庵(いほ)つくりわが居れば衣手寒し露を置きける
衣手に霜が付くほど寒き朝仮庵(いほ)なればよろづ葉にあり
次は
わが宿の尾花が末に白露の置きし日よりぞ秋風も吹く
秋されば置く白露に我が宿の浅茅が上葉色づきにけり
家持と人麿共に白露を置けば秋風上葉色づく
二人とも尾花が末と上葉にて葉の端を見て歌が湧き出づ
次は
ふるさとは散るもみぢ葉にうづもれて軒のしのぶに秋風ぞ吹く
もみぢ葉にうもれる道に屋根と庭しのぶふるさと秋の日が射す
三月三日(月)
「巻第六冬歌」へ入り
名取川やなせの浪ぞ騒ぐなる紅葉やいとど寄りて堰(せ)くらむ
歌枕川のもみぢ葉淀む場で多く波打つ堰在る如し
次は
水上やたえだえこほる岩間より清滝川にのこる白波
山の上こほる流れの間より出ずる水にて白波と為す
新古今に思ふことは、類似の歌が多い。実効の美に欠けることになる。(終)
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