二千六百五(朗詠のうた)左千夫の歌(追記、汽車会社の話題)
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十二月二十五日(水)
岩波書店の伊藤左千夫全集第一巻(歌集)を借りた。明治三十二年までは、月並みの歌が並ぶ。そんななかで明治三十一年と三十二年は、長歌と反歌の組み合はせが幾つか登場する。
三十三年に入り
牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる
--------------ここから(路面電車、客車、その周辺、四十九)---------------
牛飼は茅場町から錦糸町汽車の工(たくみ)場(ば)すぐ目の前に
汽車工場は、後に小名木川駅近く(江東区砂町)に出来た汽車会社のことか、或いは錦糸町検車区(後の錦糸町客貨車区)のことか不明だった。今回調べて個人経営の平岡工場だと判った。明治三十四(1901)年に汽車会社へ譲渡し、昭和六(1931)年東京府南葛飾郡砂町へ移転した。跡地は東京楽天地、現在は錦糸町パルコ。
(12.31追記)汽車工場の入った左千夫の歌は、大正二年の
物忘れしたる思ひに心づきぬ汽車工場は今日休みなり
がある。
錦糸町平岡工場のち汽車会社 汽車会社砂町移転のちに消滅
汽車会社は昭和四十七年に川崎重工に吸収され、東京製作所(小名木川駅近くの工場)は都営住宅(と二つの小学校、一つの中学校)になった。
大阪製作所は川崎重工大阪工場になり、昭和五十(1975)年に車両製造を終了した。工場は昭和六十三(1988)年に閉鎖した。
つまり吸収されたのは契約、技術、人員だけで、工場は引き継がれなかった。人員も、これでは退職者が多かったのだらう。
「おやじのつぶやき」と云ふブログの2009年6月に、次の内容が載ってゐる。
先月末、両国駅にほど近い、墨田区立緑図書館で興味深い資料展示があった。墨田区の交通機関の変遷のうち、機関車、電車(市電)の製造会社であった「汽車会社平岡工場」に関する展示であった。(中略)この頃、錦糸町駅南口には牧場があり、その経営者でアララギ派の歌人、伊藤左千夫がその牛乳を平岡工場に配達していたという。
会社名は汽車製造株式会社だが、車両端の銘板は最後まで「汽車會社」だったので、汽車会社と呼ばれた。当時の事情を知らない人が汽車製造と云ふが、汽車製造会社まで云はないと、一般名詞だと思はれてしまふ。
(路面電車、客車、その周辺、四十八)へ
(路面電車、客車、その周辺、五十)へ
--------------ここまで(路面電車、客車、その周辺、四十九)---------------
すぐ次の
葺きかへし藁の檐端の鍬鎌にしめ縄かけて年ほぎにけり
藁葺きの夏は涼しく日の本に合ふ昔から続く佳き家
次は
天地の神にちかひて契りにし時の心はよろづ代までに
天地の神は正しき人助く昔の代より今も変はらず
次は
春雨のふた日ふりしき背戸畑のねぎの青鉾なみ立ちてけり
左千夫は歌が上手いとつくづく思ふ一首である。調べが佳い上に、写生に忠実である。もし、ねぎの青鉾が並んで立つとどう云ふ価値があるのか、と考へるとがらがらと崩れる。歌には(1)内容、(2)写生、があるとつくづく思ふ。ここで(1)は牧水や小生で、牧水は連作で、小生は散文に歌を入れることで、内容を充実させる。
かう云ふ勝れた歌には、本歌取りができない。
青疊八重の潮路を越えくれば遠つ陸山はな咲ける見ゆ
国の外八重の雲(くも)路(じ)を越え行きて東へ西へ若かりし頃
陸山を「くがやま」と読むことは、検索で自身のホームページを見つけ分かった。
十二月二十六日(木)
この先、万葉集ではないかと思ふやうな、長歌や短歌が続き、手も足も出ない。ずっと先へ行き、明治三十五年に入り、「松島遊草」の章で
眞かねぢを走る車のとゞろきの音なくもがな相語るため
鉄(くろがね)の路(みち)行く汽(ゆげ)と煙吐く車とゞろく白黒の息
次は
ぬば玉の夢の間に下野もいつか過ぬれ白川の宿
武蔵から下野を経て白河へ関は無くともみちのくの旅
次は
夕くれて天つ風なぎ萬家のたてらくけむり空にたゞよふ
夕焼けの陽は萬家の屋根照らす限り無き世の土の果てまで
次は
天地の春たけなはに遠地こちと蛙鳴く野や昼静かなる
川崎と鶴見工(たくみ)場続く街休みの日には昼静かなる
十二月二十八日(土)
常盤木の青葉八重垣妻こめにはこやの国のおもひあるべし
これは古事記の
八雲立つ出雲八重垣妻つまごみに八重垣つくるその八重垣を
の本歌取りなので、左千夫の歌を本歌取りすると、二重本歌取りか。
元々は根津七ヶ町 西須賀と清水少しが弥生へと移り五ヶ町 二弥生を合はせすべては七つの町に
反歌
八重垣と藍染宮永片清水須賀と二弥生また七ヶ町
これは地元しか分からない。説明が要る。
打渡す墨田の河の秋の水吹くや朝風涼しかりけり
隅田川かつて臭ふの汚きも清き流れにうみねこが飛ぶ
昔は、トロリーバスに乗り隅田公園の停留所を過ぎると、臭ひが車内へ入った。
天そゝりみ雪ふりつむ八ヶ岳見つゝをくれは雲岫を出づ
八ヶ岳夏は八(や)並ぶ青き山冬は八(や)つ雪白き山 ひと年とほし飽きぬ山並み
反歌
八ヶ岳ふもとを走るくろがねの道は空の陽近きを走る
これで明治三十七年まで終はった。(終)
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