二千五百九十三(うた)尾久客車操車場
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十二月十八日(水)
昭和四十年代都電愛好家仲間で、尾久駅構内の客操(客車操車場)の話題が出た。これらは貴重な情報なので、後世のためにも記録することにした。(駅が旅客及び貨物を扱ふのに対し、これらを扱はず入れ換へのみを行ふものが操車場。だから駅で入れ換へを行なふところもかつては多かった。尤も操車場の責任者は駅長なので、操車場駅と云ふ言葉もあった。あと、大宮操駅、田端操駅、塩浜操駅のやうに、旅客駅が別にあるときに、操の字を入れる貨物駅があった。客操や組成駅は、組織としての操車場ではない駅を含む時に、よく使用した)
西尾久と東尾久には都電が走る 尾久駅の構内にある客車操車場

・一ヶ月前に、踏切の一番田端操寄りの線と組替線などとの線を切る工事をした(つまり、検修庫とその横のカシオペアや黄色いディーゼル工事車のある辺りしか、行けなくなった)。
・二ヶ月くらい前に、王子寄りの踏切(梶原踏切)の10mほど客操寄りで、東部入替線と洗浄線二本との接続を切る工事があった。
・三年前に、尾久構内の信号設備が一新されて電子連動になった。設備の小規模化(2000進路超だったのを制御装置一台で済ますため512進路に抑へた)と、踏切を跨ぐ入換の廃止。
・今進んでいる工事は、枕木と標識の仮の車止めだったものを20㎝ほどレールを切り取って、端に第二種車止めを設置。軌道回路の短絡防止か。
・生きている線路の不要な分岐器を取り除くのが、一昨年に中央部(構内本部南)、昨年上野方(東田端の踏切付近)、今夏洗浄線の前後と進み、今は最終段階か。
・残る線路表示機と標柱が今夏撤去。時計塔(「見張台」が正式名称か)が消えた。
・組替1-4と引上機回の東は回敷1-2か、字が小さく分かりにくい。回敷は検索すると、再利用。機関車を留めておくところでは。最初は、編成を外れた客車と考えましたが、それは第一予備がある。
・客車は「  駅に到着の上は   客貨車・運転・区・支区に回送/  客貨車・運転・区・支区」という紙札を入れ、その下に冬だと送水管が破損したなど理由を書くことがある。この紙によって、尾久駅では回敷へ入れて、そのあと客車区へ入庫させたのでは。役を終えた機関車は、機関区へ入れたほうが機関士も点呼を受ける都合がある。
・紙札は四種あり、客車はこのうち二種、貨車は四種すべてを使用した。昭和五十四(1979)年頃に、尾久の今はカシオペアが留まる辺りに、貨車のみで使用する二枚のうちの一枚(当駅留置だったと思ふが、移動禁止だったか。赤い×印の線が背後に入った)を付けた車両が何ヶ月か留まった。今思へば、その数ヶ月前に入れ替へで客車が転車台付近で突放状態(連結器が解結して勝手に走る)し、清掃庫の作業員が亡くなる事故があった。その証拠物件だった。
・電車区は低い位置の水銀灯なのに、操車場が高い位置なのは、時代差かと今まで考へてゐたが、電車は架線が有るのに対し、操車場は架線が無い部分が広いためだ。
・「日本の貨車操車場」(Wikipedia)に、「国鉄社内では、操車場を含む貨車の入換作業を行う駅(貨物駅も含める)を組成駅と総称しており、1980年10月1日時点で150を数えた。組成駅は社内規則により、本社指定組成駅、地区指定組成駅(支社による指定)、局指定組成駅(鉄道管理局による指定)の3つに重要度別に分けられていた」
・照明塔は、昨夏と思ふが点灯をしなくなった。今春随所の架線柱に隈なくLED照明がついてあたり光の海になった。 到着線周辺にあった釣鐘型の水銀灯も換装された。
・検修庫南の照明塔が、夏に解体された。特養ホーム脇(尾久機関区扇形庫跡)のも消えた。知る限り7基あったが、ほかに駅前の1基が10年以上前に撤去、台座のみ残っている。現存は梶原踏切、転車台付近、中央、下田端の踏切付近の4基。
・時計塔は2基残り、着発線の上野方が塗り替えもされて現役。本線から見える。一方、中央にある錆が浮いているのは止まったまま。夜は明かりがともる。もともとは5基だったと思ふ。
・ホーム南端付近にあったものは4~5年前に止まったあと上部を撤去。基部がスピーカの台座として残っている。尾久車両センター事務棟の脇に1基あったが同じころ消え、今夏、梶原踏切のがなくなった。
・洗浄線隣接の2線は「回転1#・2#」だった。使用停止となり今夏上野方の分岐が外された。
・今は、検修庫の横(カシオペアの隣)に黄色の工事車両がたくさんあるが、二年前は無く、その前から尾久車両センター配置なので、二年前は田端操側の機関区だけだったのに、車両数が増えて客車区横にも留置するようになったのでは。その分、貨車が減るが、宇都宮貨物(タ)常備なので、尾久では減ったことが目立たない。

組成駅の廃止、旅客会社と貨物会社へ分離、旅客会社は観光用を除き客車廃止、と続いた。昔のことを知らない人がWikipediaなどを書くと、(1)貨物会社の機関区から客貨車区の情報が抜ける、(2)客操構内をすべて客車区(今は車輛センターなど)と間違へる、が起きる。その為、ここに記録をした。
今回は該当しないが(3)国鉄時代の運転区(所)は、動力車区と(客)(貨)車区を合併したもの、もある。
鉄道は 貨車操車場廃止から 分割ののち客車減り 今や昔の面影はほぼ無くなりて記録を要す

反歌  客貨車を分割するは鉄道を悪き姿に二度と帰らず(終)

追記十二月二十二日(日)
カシオペアが、定期列車として札幌まで走った時代の料金はどうだったのかも、記録しないと将来は分からなくなる。
運賃18,440円、特急料金3,060円と
カシオペアスイート:26,220円
カシオペアデラックス:17,670円
カシオペアツイン:13,730円


追記一月三日(金)
その後の会話進展。かう云ふ情報は貴重。
・軌道回路が来ている場合、車止めの直前に絶縁継目があるもので、電気的には切れているようだ。
・尾久操構内、車止めをつけるのにレールを切った理由は、カーブや分岐にかかるのでまっすぐに敷き直さないと入らない。
・尾久駅あたりから荒川線まで双方見通せる場所が殆どなく、一時期、荒川車庫の絵のうまい人が書いたらしい案内図が尾久の駅舎にあった。
・3~4年来、双方とも営業活動がかなり自由になり、イベントでは相互乗り入れしている。
・終戦直後は尾久駅のホームから荒川(隅田川)の土手が見通せた。つまり旧王電の車が行き来するのも見えたことでしょう。
・今は、検修庫の横(カシオペアの隣)に黄色の工事車両がたくさんあるが、二年前はなかった。調べるとその前から尾久車両センター配置なので、二年前は田端操側の機関区だけだったのに、車両数が増えて客車区横にも留置するようになったのだらう。その分、貨車が減るのは残念だが、貨車は宇都宮貨物(タ)常備なので、尾久では減ったことが目立たない。
・検修庫脇の、レール輸送用のキヤE195系は、定尺用2連のは可愛いが、ロングレール用の11連はゴツく、エンジン8基積んでいて走ると豪快。尾久が選ばれたのにはDC急行・特急以来の給油・検修設備があるのが大きい。
(給油設備は到着1~4#と客車区4#上野方にあって、今回田端の機留線にも新設された)
横断地下道の西口あたり、予備線の南端は30年くらい封鎖されていたが、たしかコロナの前年、敷きなおされて復活した。
定尺用の出入りと給油・仕業検査は田端側だが、検修と洗車は尾久側、しばしば行き来する。長いのはもっぱら尾久側で、出入りも旅客線が主体。
・カシオペアの他に、なごみと四季島もDE10で検修庫へ入れ換へるが、黄色の工事車は自走で検修庫に入るため、DE10の活躍がだんだん少なくなった。
・一回、ホッパ車とDE10で、検修庫横から発車線まで入れ換えるのを見たことがある。操車担当の実地訓練だと思ふ。
・気動車を客(貨)車区で受け持つのは、尾久客車区、郡山客貨車区、盛岡客車区だけだったと思ふ。
・カシオペアは6両ずつ分割して検修庫に入れる(とは言え、電源車だったか一両だけ欠けた編成が検修庫横に留置したことがある)。かつて客車は新系列(20、12、14、24系)を含めて、一両単位で交番検査に入れた。例外を東京駅のホームで一回だけ見つけて、熊本の12系だったか記録しなかったのが残念。四季島は10両なので分割しないで入れるらしく、ときどき検修庫から1両程度、梶原踏切側にはみ出す。
・水銀整流器の本物を高専で見て、青く輝いてゐた。昭和47年辺りの鉄道雑誌に、水銀整流器は交<->直の変換ができるが、シリコンやセレンの整流器は交->直しか出来ないので、機関車に回生ブレーキが無いとの記事を読んだ。 しかし半信半疑で、あの時代は水銀整流器に制御信号電圧を掛けられたか。->Wikipediaによると、水銀整流器を用ゐて交流機関車に回生ブレーキがあった。(これは交流機関車の話題で、田端機関区にはゐなかったが)


兼(路面電車、客車、その周辺、四十七)へ 兼(路面電車、客車、その周辺、四十九)へ

メニューへ戻る うた(一千百三十二)へ うた(一千百三十四)へ