二千五百二十八(うた)南伝と達磨大師
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十月二十七日(日)
南伝と達磨大師を遡れば、初期の仏道に到るのではないかと考へた。達磨大師は、その後の曹洞宗ではない。達磨大師の教へは、北禅と南禅に分裂し、北禅が優勢だったが廃仏に会ひ、南禅が生き残った。そして七宗に分裂した。(良寛和尚に学ぶ初期仏法へ)。
南禅と北禅へ分裂の前から、達磨大師の仏法は変化してゐたと見るべきだ。だから不立文字が崩れて分裂した。或いは、貪瞋痴が崩れて分裂した。
今回の特集は、既に書いた内容がほとんどだ(特に初期仏法を探す釈尊の対機説法と先ほど紹介した良寛和尚に学ぶ初期仏法)。それなのにもう一回特集を組んだのは、小生が曹洞宗の坐禅会に参加してゐるのかと思はれたためで、浦和へ引っ越してからは参加してゐない。(11.03追記)その十年近く前から、中板橋へ参加するやうになってから、日本の坐禅には参加しなくなった。ただ浦和へ引っ越す直前くらいに、中野坂上と大久保の曹洞宗寺院に一回づつ参加した。この二つの寺院は気に入ったのでその後も続けたいと思ったが、浦和へ引っ越してから参加の機会が無くなった。
南伝は 部派仏法の一つにて経典化及び複雑化受けたとは云へ 釈尊の僧団及び戒律を引き継ぐ故に最も尊し

反歌  達磨大師作務をするので戒律に一部背くもほかは尊し
反歌  達磨大師その尊きは不立文字行き過ぎなのは坐禅偏重
戒定慧のうち、戒を軽視したことが欠点になった。達磨大師自身は、持戒僧以上に自律したことであらう。しかし代を重ねるうちに、分裂したり、猫を切ったり、日本の明治維新以降は妻帯するやうになった。何回も云ふことだが、日本の仏法は、準僧侶または社僧になれば良い。

十月二十八日(月)
ミャンマー経典学習会で、ダンマパダ本文と、因縁物語と、それに付属する古文書が、釈尊の説いた内容だ、と思へるやうになった。これまでダンマパダ本文には、中村元さんの説に由り釈尊直節が含まれると思ってきたが、本文だけでは不十分で、釈尊は因縁物語を話され、更に四種の人間の説明もされたのだらう。南伝仏法の特長は、豊富な古文書にある。
そして部派仏法時代の僧団が今に繋がり、戒律が今に繋がることに、特長がある。
一方で達磨大師は、不立文字なので、古文書は無いが、坐禅一筋と作務が特長だ。作務は戒律に違反するが、さうせざるを得ないほど山奥で修業した。
現代ミャンマーの森林僧院は、托鉢をしても周りに民家は無い。しかし大勢の信者が、食事や生活品のお世話をする。さう云ふ方法が確立する前と後の違ひが、戒律を守って労働してはいけない大きな僧団と、作務をして自活する小さな僧団を生んだのではないだらうか。小さな僧団から唐へ来たのが、達磨大師だ。

十月二十九日(火)
菩提達磨(ぼだいだるま)は、面壁九年が有名だ。突然これに疑問が湧いた。山の中で、特に洞窟の中で面壁して、食事や日用品はどうするのか。面壁九年は、後世の語ではないか。調べて見ると、いろいろな事がわかった。
達磨大師が来た時に、既に少林寺はあった。インドの仏陀跋陀羅(ぶったばっだら、359年~429年)の住寺だった。その数十年後に、達磨大師が来た。
仏陀跋陀羅は北インド出身の訳経僧。長安で鳩摩羅什とともに過ごした。その後、長安の仏法界から排斥を受けて逃れた。原因は、仏陀跋陀羅の禅法と戒律が、鳩摩羅什の影響下にあった長安仏法界から反発を受けた。仏陀跋陀羅が翻訳したのは「大般涅槃経」「華厳経」、「摩訶僧祇律」など15部117巻。
ここで判ることは、鳩摩羅什は大乗経の僧。仏陀跋陀羅は禅法と戒律を保つが、大乗経を翻訳した。達磨大師は、不立文字。鳩摩羅什や仏陀跋陀羅の欠陥を克服した。
小生が最初、達磨大師の面壁九年に疑問を持ったのは、ミャンマーの経典学習会が四年半ぶりに再開された。ここ二年ほどは、良寛和尚を調べるうちに、南伝とは距離が開いたが、今回再び縮まった。そして達磨大師に一瞬、疑問を持ったが、調べると南伝と矛盾しないことが分かり、安堵した。
面壁が九年間に疑問持ち 調べて見れば少林寺元から在りて その前に仏陀跋陀羅排斥で来る

反歌  鳩摩羅什仏陀跋陀羅菩提達磨三人並べ違ひ鮮明
反歌  鳩摩羅什それに従ふ長安の仏法界の堕落が目立つ
反歌  禅法と戒律必須仏法に達磨大師は更に進める
一番目の反歌で、「三人並べ」は最初「三師を並べ」だった。鳩摩羅什は亡くなる七年前に皇帝の意向で、還俗し十人の女を娶った故事に従った。(終)

「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十一の二) 「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十三)

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