二千五百三十(朗詠のうた)定本 良寛全集 第一巻詩集
甲辰(西洋未開人歴2024)年
十月二十八日(月)
内山知也、谷川敏朗、松本市壽「定本 良寛全集 第一巻詩集」を読んだ。良寛和尚の詩は、これまでに何回も取り上げたので、今回は本文以外を紹介したい。
良寛が五合庵を出て、その麓の乙子神社の草庵に移ったのは、(中略)五十九歳のころである。ここでの十年間は創作意欲が最も旺盛で、詩歌や書芸の完成期ともなっている。

乙子神社へ移ったのは体力の衰へによるから、五合庵時代の後半が完成期かと思ってきた。
手や足が衰へた故文書きが進むことあり我が事にても

手や足が衰へても、特集の作成数は増えた。さて、良寛和尚が越後に帰った後に
同時代の人びとが良寛の詩歌に目をむけたのは、そこに詠み止められた内容よりも、書かれた流麗な墨跡への関心からであった。(中略)やがて詩歌の内容へと関心が移って行ったといってもいい。

これは同意見。
『草堂集貫華』は、山本家の七人兄弟姉妹の長女、良寛より二歳下の妹むらに献呈された。妹むらは寺泊の外山家に嫁いでいた。(中略)五合庵とも近く、良寛は手にあまる洗濯ものとか繕いものを妹むらに頼み、助けてもらっている。

なるほど。
また『草堂集貫華』の抄本ともいうべき「小楷詩巻」を(中略)父以南の生家新木家に贈った。

実父より育ての親が大切だし、昔は家制度の親を大切にした。以南が実父かどうかとは無関係である。逆から見ると実父が以南なら、嫡男の良寛和尚が跡を継がなかったので家が没落したし、以南は自殺した、と恨まれるだらう。
やがて良寛は、新作の詩を編み入れたもっと整った詩集を作ろうと新たな構想で取り組みを始めたと見られる。それが(中略)本田家旧蔵の『草堂詩集』(天・地・人)三巻である。

これは
ちゃんとしたまとまりのある次の『草堂集』を編集するためのたたき台にするつもりで編まれたもので、(中略)過渡的な詩集であったと推定される。

そして
第三集ともいうべき『草堂集』の成立は、『草堂集貫華』と『草堂詩集』から二年以内の(中略)良寛五十六歳のころと推定する。

今まで、詩の中味と、著者による訳し方の特徴ばかり気にして、詩集が三つある(抄本を含めると四つ)あることは、初めて知った。
『草堂集』原本は、現在なお行方不明で、(中略)同一と見られる写本がいくつか現存する。写本のいちばん古いものでは文化十二年の奥書きのある(中略)『良寛禅師詩集』である。(中略)『良寛尊者詩集』と同一の内容で、(中略)『良寛上人詩集』など(以下略)

次に、詩の内容について
音読みにこそ必須とされる押韻・平仄の技巧は、日本人が味わう場合には意味をなさないことになりはしないか。良寛は(中略)先駆的な見識をもっていたのである。

実際に清国へ行き日常会話をしないと、かう云ふ主張はできない。平仄の無視こそ、良寛和尚が渡航した証拠ではないか。
もろこしに住みて分るか詩(うた)の声日の本にては要るか要らぬと
(終)

「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十二) 「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十四)
                            次の良寛和尚

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