二千四百八十四(朗詠のうた)釈尊の対機説法
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
九月十八日(水)
前に、善い行ひをすれば周囲が応援してくれるから善くなるが、それだと唯物論だから、神々も応援してくれる、とした。
このときに、因果の法則も云はないといけないのでは、との思ひもあった。しかし云はなかったのは、因果の法則は神々の働きと解釈することができる。生まれた時から倶生神が二つ行動を共にして、一つが閻魔大王へ報告に行ったときにもう一つが記録する。同生天、同名天とも呼ぶ。
人は皆生まれた時より両肩に同生天と同名天 交互に善悪報告を閻魔様へとする教へあり

反歌  右左肩の同生同名天二つの神が善悪記す
今回、釈尊は相手の状況によって説法をした故事を当てはめると、神々に興味がある人には神々、因果に興味がある人には因果を説いたのではないか。当時のインドはバラモン教の時代なので、因果説が優勢だった。
当時は貧しいし、病気の対処法が無い。輪廻を早く抜け出したいと思ふ人もゐた。そこで輪廻を抜ける方法も説法した。 かう考へると、仏法のほとんどは対機説法だ。それらを除くと何があるだらうか。戒定慧が残る。
釈尊は相手に合った法を説く すべての人が救はれる勝れた教へ今に伝はる

反歌  北回り多くの文を伝へたが南回りは派が一つのみ

九月十九日(水)
前回(初期仏法を探す)の九月十四日に「禅宗なんて名乗ってはいけない。それでは坐禅偏重になる」と書いたが、まづ、戒定慧のうち定の手段としての坐禅が、仏法全体の目的になってしまふ。次に、禅宗または坐禅の語には、中国化(儒教、道教の影響が入った)の影響がある。
日本は漢字を使ふやうになってから歴史が長いので、中国化しても受容することはできる。しかし理屈をこねすぎる。猫を切った話はその最たるもので、いくら理窟をこねても不殺生戒に背いたのだから、当事者は地獄に落ちる。当然のことである。
或いは、南宗と北宗に分裂したときの話も中国化だ。臨済宗や曹洞宗は南宗だから、六祖慧能を神格化するが、当時は北宗が優勢だった。廃仏毀釈で双方が滅び、しかし南宗は復活した。恵能を神格化する話ではない。良寛和尚は曹洞宗なのに、南宗を正当化せず、仏法が分裂したことを嘆く。慧眼だった。
北宗と南宗の話から、中国経由の仏法と、南伝仏法の話に移り
仏法は 北を伝はるもののみが秋津洲へと入り来る 南から来た教へにはもろこしの色染まらずにタイやミャンマースリランカカンボジアラオス伝はりて 比べて見れば禅宗の前

反歌  禅宗はもろこしにより変はるあり南を足して元へと還る

九月二十四日(火)
従来のサンガから離れて、山の中で修業をすれば、教義複雑化による部派仏法への分裂は避けられる。しかし山の中では托鉢ができない。本来は農作業をしてはいけないが、自給自足になった。
日本の曹洞宗で、自給自足のお寺があるから、その原型かも知れない。良寛和尚が曹洞宗組織から離れたことも、その流れか。しかし良寛和尚は、山の中には入らず、人里で托鉢をした。或いは、寒山拾得が山中で修業しても、ふもとの寺から食料を分けてもらった故事の影響か。
南伝仏法の部派化の前と、達磨大師の中国到達前を、考へ合はせるとき、初期仏法があると期待したい。
北回り読むと話すを行なはず達磨大師が道示す 南回りは文多く釈迦直説のものもある 北と南を合はせれば中の道にて得るもの多し

反歌  もろこしは多くの文が入るとも達磨は文を立てること無し(終)

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