二千三百八十一(うた)良寛和尚に学ぶ初期仏法
甲辰(西洋未開人歴2024)年
六月二十三日(日)
良寛和尚の詩に、仏法の分裂を嘆く作品がある。天竺に於ける初期仏法から部派仏法への分裂は、唐や大和では知る由も無かったが、そこへ達磨大師が現れた。ところが南禅と北禅に分裂し、南禅が更に五家七宗に分裂したことを嘆く。大和では、道元が統一したが江戸時代には形骸下した。
つまり、釈尊に始まり、達磨、道元と復活させたが、それぞれの後は分裂する。分裂前こそ正しい。これが良寛和尚の仏法論であった。分裂前とは、即ち初期仏法である。
現代は、南伝仏法の存在が分かり、北伝の非大乗と併せて上座部と呼ばれる。上座部と大乗は、部派仏法の後継だから分裂後である。そもそも、上座部と大乗を分ける意味があるか。日本では、鎌倉仏法を大乗と勘違ひするから、大きく異なるやうに見える。本来の上座部各部派と大乗各部派に、本質の違ひは無い。
良寛和尚の、初期仏法を目指す姿勢こそ、正しいものだった。
釈尊と達磨大師と道元を 敬ふことは仏法の初期を目指すの貴き修行

反歌  日本では鎌倉時代の新仏法これぞ大乗勘違ひする
反歌  現代は明治維新で妻帯をこれぞ大乗勘違ひする
分裂するのは、教義が複雑化するためだ。簡単な教義なら、分裂しない。根本分裂は教義が複雑化する前なのに、上座部と大衆部に分かれたが、あれは律蔵が複雑化した。律蔵は、経典の一部だ。或いは地域差もある。天竺は広いから、地域の習慣が異なる。
達磨大師の、経を用ゐない修行は、釈尊時代に還るものだ。その後、禅宗は論語化する。だから達磨大師の時代に還ることが必要だ。
道元和尚はどうであらうか。論語化し分裂した五家七宗の一つ曹洞宗を持ち帰った。道元和尚は、唐への渡航、日本では迫害の中での修業が、初期仏法へと還れる原因だったのではないか。
良寛和尚も、曹洞宗からはみ出した後は、質素な中で修業した。これが初期仏法へと還れた理由ではないか。初期仏法と、覚ることとは、同一だらうか。覚ることを目指すのが初期仏法なので、同一だらう。曹洞宗で覚ることは可能だらうか。宗内の出世など雑念が多いから不可能だらう。道元和尚が亡くなったあと、三代目で早くも騒動が起きた。
曹洞宗で覚る方法は、良寛和尚が示した。修行が終ったら宗内を離れ、質素に暮らす。これ以外に覚る方法は無い。つまり曹洞宗でこれまでに覚った僧はわずかだ。とは云へ、人々に安心を与へることも僧侶の役割だ。昔なら、祈祷や死者の弔ひ、今は更に坐禅会で人々に心の安定をもたらす。
世の中で役に立たない僧は無し 祈祷弔ひ坐禅会 良寛和尚別格にして

反歌  江戸の末良寛和尚は生き方で人々修行で僧侶の手本(終)

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