二千二百八十三(うた)飯田利行「良寛詩との対話」(その二)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
三月二十八日(木)
飯田利行さんの著書を三冊借りた。まづは「良寛詩との対話」で、前に特集を組んだ。その前にも清国渡航説を取り上げた。
良寛さんは、歌人としても正岡子規、伊藤左千夫、佐佐木信綱、斎藤茂吉、島木赤彦、会津八一、折口信夫、吉野秀雄等が絶賛を惜しまなかった。

なるほど。次の話題で、幕末の三舟は
三筆でもあるが、第一筆と讃えられる泥舟の筆による道標が、分水町のはずれ(中略)に立っていた(以下略)

口絵に写真も載る。良寛を慕って来たのであらう。
良寛さん生前に偽書専門の書家がいたとのこと。(以下略)
 筆  硯
吾れと筆硯と 何んの縁がある、一回書き了りて また一回。
知らず このこと誰れにか問わん、大雄・調御・天人師。
(註略)
良寛さんは、書債の鬼に追いかけまわされている私の気持を知って下さる方は、釈迦牟尼世尊だけであるという。

ここで(註略)には、大雄・調御・天人師について
何れも釈尊の尊称語。

とある。ずっと修行をしてこなければ云へない言葉である。近藤万の書くやうに、何もせずぼうっとして狂人みたいだったら、良寛が大雄・調御・天人師と書くはずが無い。
経年 弧舟 江湖の夢、今夜 洞房 琴酒の期。
他日交情を もし相い問わば、十字街頭の窮乞児。
(中略)良寛さんは、清国行脚生活四年間に、元曲(元の雑劇)の聴劇(二文字で、しばい)も見聞してきたことであろう。

小生は、良寛さんが渡航したのなら滞在は一年くらいとこれまで考へてきたが、飯田さんは四年間だ。なるほど熱心な良寛さんである。しかも道元の宋滞在が四年半だったことを思ひ起こせば、四年が妥当だ。
却(きょ)来という禅語を訓読すれば、「かえり来たる」。悟境に到達したならば、修行を思い立った以前の凡夫つまり煩悩具足時代の浮世に戻り、(中略)絶対境の恵みを(中略)他にも潤おしてあげることの意。(中略)ところが仏教では、菩薩行ということが説かれているので「却来」の境地は、高嶺の花。(中略)禅者は、ほとんど却来に未到達のまま菩薩行で終ってしまうのが常である。

飯田さんは、良寛さんや布袋さんが却来だとする。次の話題に入り
次の詩は、教家、禅家の在り方を批判するとともに良寛さんの厳しい仏法論が展開されている。
三界冗々たり 事 麻のごとし、(中略)洞山の好言語、門をづれば 即ちこれ草漫々。

の書くやうなことをした人が、こんなことを云へる筈が無い。
次の詩には宗門を見渡したところ、何れも名利を貪る者とか、(中略)畜生まがいの宗侶ばかりだ、と嘆いている。
仏祖の法灯 漸くまさに滅せんとす、(中略)涙むなしく下る。

これも近藤万とは正反対である。
良寛の思想を知るには 良寛の漢詩を読むが唯一の方法にして 良寛の漢詩を読むに最適は飯田利行師著書を推薦

反歌  利行師は漢詩の教授曹洞宗僧侶その上良寛敬愛
反歌  良寛の漢詩につきて三拍子揃ふの人は利行師のみに

三月二十九日(金)
このあと、良寛が清国へ渡航した話に移るが、前に紹介した(清国渡航説)ので今回は省略した。飯田さんの書籍を読めば、渡航は事実だったと結論を出すのがよいだらう。
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良寛さんの詩は、風流をこととする詩人と異なり、生活、生命の詩人ゆえ悲喜、美醜等を主題とはしない。

「悲喜」はあると思ふが、無欲、無我なのだらうか。結論は少し先にあった。
無我の境にある良寛さんの目に映る人、物、自然はどんなに美しかったことか。(中略)自他を絶した同類としてその間に差別も警戒心も入れず、あるがままに見とる点にこそある。

なるほど、小生の考へと同じだった。今回三冊のうちで「良寛詩との対話」を最初にしたのは、頁数が一番少なかった。(終)

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