二千二百七十七(和語のうた)信綱「思草」を二度読み
甲辰(西洋未開人歴2024)年
三月二十二日(金)
信綱「思草」を二度読んだ。一度目は、旧派の流れを持つ歌で美しいと感じたものの、途中からそれまで守った「あいうお」以外の字余りが現れ出し破調だ。そして破調に我慢できず、打ち切った。一回目で破調の歌は
なつかしき昔の橋のもとにくれど昔のかげを見るよしのなき

平凡な歌なのに、三句目が字余りだ。この程度の歌なら、幾らでも改良できる。
花の上野花の広小路栩々として栩々として紙の蝶舞ふ

これは酷過ぎる。
柴の戸を明けたるまゝに主人さりて花さきにけり花ちりにけり

三句目が字余り以上に、全体が凡庸だ。こんな歌ばかりなので、この少し先で打ち切った。ここまでで思ったことは、信綱は最初佳かったが、 途中から悪くなった。そこで次に、最初佳かった歌を挙げようともう一度読み返した。一番最初の
鳥の声水のひゞきに夜はあけて神代に似たり山中の村

これが、佳いと云ふほどではないが、後の歌集みたいに悪くはないので、一首目に引き摺られてしまった。二首目からも、恋愛物、破調ものばかりだ。そんな中で十一首目の
そゞろにも故郷いづる夏のよひ星かげまばら草の香高き

は佳作だ。その七首後の
石多き湯の山越の七まがり湯のけ薫りて百合の花咲く

も佳作だ。その次の
観来れば山もなくまた見ずもなしむなしき空はたゞ秋の風

も佳い。その十三首後の
篙(さ)の上に蜻蛉(二字で、あきつ)とまりてあら川の浮間のわたし人かげもなし

この歌は、佳いと云ふ程では無いが、十一日前に浮間へ行ったので載せた。その二首後の
木がくれに鶯なきて春ふかき関の古道あふ人もなし

佳くはないが、悪くもない。その七首後の
大方は昔なじみの顔ならず村の居酒屋むかしながらに

これは佳い。その七首後の
いたづらに出湯あふれて空きふかき山の上の宿人影もなし

は佳作。その六首後の
たつ人はみな立ちはてゝ旅籠屋のひる間さびしき庭鳥の声

これも佳作。これまで取り上げたやうな歌ばかりなら読み続けられるが、さうではない歌が多いので、これ以上読み進むのは不可能になった。
一つ目と二つ目に読み思ふこと 全く違ふその訳は 前に信綱読むときと異なるために一つ目高し

反歌  音(ね)余りとわたくしごとの歌多く美しさ無し時の流れか
「流れか」は、明治時代の歌の傾向への皮肉。(終)

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