千九百五十七(うた)飯田利行「大愚良寛の風光」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
三月二日(木)
飯田利行「大愚良寛の風光」は昭和六十一年の発行である。
良寛は、自己の所属する宗門に対し、また自己の分身ともいうべき詩・歌・書に対しても体制に甘んじようとする精神と態度を極度に嫌った。
なるほど詩・歌・書は良寛の分身であり、体制に甘んじようとする精神と態度を、たまたま詩や発言で少し批判したのではなく、極度に嫌ったのは事実だ。
飯田さんの著書に「良寛髑髏詩集譯」(昭和五十一年)がある。「題九相図」は有願の作と唱へる人たちがゐて、飯田さんもその前提で訳注を始めた。ところが
訳注の仕事が進むにつれて、詩の内容、表現様式上よりみて、有願作の仮説が次々に打ちくだかれる結果となった。
骸骨の理論など、小生の頭の限界を超えるので内容は割愛し、章の最後の
良寛の詩は、虚と実、美と醜、煩悩と菩提、といった一切の対立を許さない。だが、対立を絶した世界を踏まえ、虚を、醜を、煩悩を(中略)凝視してやまない主人公を、仮りに髑髏といい、骸骨と称している。(中略)良寛の『題九相図』は、髑髏を通して、万有の真実を詠いあげた文学にほかならない。
髑髏、骸骨、肉や内臓が腐敗し液体の流れ出たものなどは、仏道で扱ふ範囲だ。
内臓が腐敗し液があふれ出る その後髑髏骸骨に これらを扱ふ学問は仏道にして死後をも救ふ
(反歌)
仏道が死後も救ふをまづ知れば骸骨の図や詩にも幸あり
三月三日(金)
飯田さんは、吉本隆明さんを批判する。吉本さんが、良寛は道元が排した荘子の思想に入り、道元が禁じた詩人となったとすることに
荘子などは、批判すれば(看荘子図賛骸骨)とて賛えてはいなかった。
また土佐の高知の小屋に居た「越州の産 了寛」の机上に『荘子』(中略)に頼らずに、良寛さんがどのようにして荘子に傾倒し、(中略)詩人に転向したかという経緯を明らかにして結論を導き出してもらいたかった。
100%賛成。そもそも近藤万丈の記憶は当てにならない。良寛さんが座禅も読経もせず一日座ってゐたとするが、近藤はそれを一日見てゐたのか。もし昼間出掛けるなら、その間に坐禅と読経をしたと考へなかったのか。つまり近藤の作り話だ。近藤の嘘で、良寛さんが一日何もせず座ると云ふ印象が広まってしまった。しかし
円通寺から帰って五合庵に入ったころに、真木山に住んでいた原田鵲斎が、たびたび五合庵を訪れるが、いつも坐禅していなさる(以下略)
これが本当の姿だ。鈴木隆造に贈った
無能の生涯作す所なく、国上山巓に此身を託す。
他日交情如し相問わば、山田の僧都是同参。
について
「私は山田の僧都(かかし)といっしょに暮しているよ」つまり坐禅三昧の明け暮れです、という意。「僧都」とは、「坐禅」のこと。そしてこの山田の僧都は、道元禅師の「坐禅」と題した歌「守るとも思はずながら小山田のいたづらならぬ僧都なりけり」に依ったもの。
なるほどと思ふ。
「たれか我が詩を詩という(以下略)」について
それがおさとりであり、髑髏の世界であるということがわかってしまえば、いとも親しみやすい平常底の詩として理解されるはずである。
ページはずっと後ろになるが、原担山が
「良寛さんは永平高祖以来の巨匠である」(中略)と絶賛しておることです。
原担山は、書籍の出版を巡って曹洞宗から僧籍剝奪になり、後に世間で活躍することが顕著な為に復帰した。さう云ふ人の云ふことは当てになる。良寛を誉める文章は
立派な漢文です。
とする。ところが寒山、拾得、豊干に言及した一文だけ、頂けないと云ふ。小生と飯田さんは九割がた意見が一致するが、ここは異なる。渡航後も曹洞宗だったとする飯田さんと、全仏道または寒山宗になったとする小生との違ひが出た。飯田さんは寒山の詩
誰れかよく世累を超えて、
共に白雲の中に坐せん。
について
だが寒山の詩は、俗界を超えているということに執着(とらわ)れています。それだけならまだしも「誰れかよく白雲の中に坐せん」などと、「どうだ、衲(わし)は大したもんだろう」と大見栄を切っているところは、まさに俗臭ふんぷん。
小生は、寒山の明治期に至るまでの人気を重視する。森鴎外の小説や西條八十の蘇州夜曲にも登場する。飯田さんがそこまで否定すると、逆に良寛が寒山から影響を受けたことを否定したいからではないかと思ってしまふ。
三月四日(土)
この書籍は法華讃が最終章だ。飯田さんは、まづ
『正法眼蔵』および『永平広録』は、法華讃の注釈書とも称すべきものだからである。
と主張する。この後の法華讃訳注では、正法眼蔵にある類似する内容を注として記す。
小生は、法華経と禅宗各派は別物と考へる。達磨が法華経を持って中国へ来たとは思へない。しかし天台宗に止観があるやうに、禅宗系は天台宗の一部を切り取ったと云へる。禅宗関係者は、天台宗の坐禅と禅宗系の坐禅は別物だと否定するが。
道元が渡航したときは、法華経をどの程度学んだか分からない。しかし良寛が渡航したとすれば、法華経や寒山詩も学び、それが帰国後の良寛になった。小生はさう考へる。
良寛は渡航したのか賛否あり 飯田さんとは同意見 唯一意見が異なるは天台及び寒山を学んで来たか来ないのか 多くの人も興味を持てる
(反歌)
良寛は渡航の有無ともう一つ天台寒山興味は尽きず(終)
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